
今から約400年前の慶長18年(1613)、仙台藩主の伊達政宗はスペイン・ローマへ貿易を求め慶長遣欧使節を派遣した。ヨーロッパに渡りスペイン国王やローマ教皇と謁見することに成功したが、伊達政宗はなぜ支倉六右衛門ら一行を派遣したのか。そして彼らはどのような末路をたどったのか。歴史作家の河合敦さんが、新刊の『2泊3日のぶらり日本史あるき』から、この歴史の謎について解説してくれます。
布教を許可する代わりに交易を求める
伊達政宗がスペインに慶長遣欧使節を派遣することになったのは、スペインから幕府に派遣された使節、ビスカイノとの出会いがきっかけだった。
この時代、フィリピンはスペインの植民地であり、同地を統括していたのがフィリピン総督である。慶長14年(1609)、フィリピン前総督ドン・ロドリゴが帰国すべく出航したところ、台風のために日本の上総国に漂着、幕府の支援によってどうにか帰国することできた。その謝恩使として派遣されたのがビスカイノだったのである。
政宗は江戸の路上で偶然、このビスカイノと出会って意気投合し、彼を仙台に招くことにしたのだ。
実はこのころ、ビスカイノは乗ってきた船(二代目サン・フランシスコ号)が暴風雨で破損し、帰国できなくなっていた。そこで政宗の力を借りようとしたのだと思われる。
一方の政宗は、海外交易に乗り出そうと考えていた。当時、九州の諸大名や豪商たちが東南アジアに出向き、朱印船貿易を行っていた。