『大久保家記別集』によると、長安の屋敷から異国王の書簡類が見つかり、そこには「異国軍を使って幕府を倒し、後見していた家康の子、忠輝を皇帝にして自身が関白に就こうとする計画書が押収された」と書かれている。
先述の通り、忠輝は政宗の婿であり、政宗は長安とも親しかった。このため政宗のスペイン同盟説は信憑性を帯びてくるわけだ。
家康との直接対話により危機を脱する
明治時代からこの説は存在したが、研究者の松田毅一氏は、使節の派遣には幕府も関与していることから、その可能性を否定している。使節のソテロがスペインに日本での布教を支援してほしいので、口からでまかせを話したのだろうと断じた。
一方、大泉光一氏はソテロに批判的なイエズス会の宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスの書簡を調査し、そこにある次のような記述からまったく異なる見解を唱えている。
(家康と秀忠は)政宗がテンカ(天下)に対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使を(スペイン及びローマに)派遣したと考えたのであり、ショグウン(将軍)のフナブギョウ(船手奉行)であるムカイショウゲン(向井将監)がそれを政宗に伝えた。このような次第であったから、政宗は大使の(仙台)帰着により、キリシタンと手を結ぼうとしたのではないことをショウグン(将軍)に示そうと欲した。(大泉光一著『支倉常長 慶長遣欧使節の真相―肖像画に秘められた実像』雄山閣)
やはり政宗はスペインとの同盟を企んでいたという結論だ。
ただし、大多数の研究者は、政宗が倒幕のためにスペインと同盟を結ぼうとしたという説には懐疑的である。慶長三陸大地震で被害を受けた領内の復興のため、スペイン支配下のメキシコと直接交易することが目的だったと考える人が多い。
ならば、家康が政宗をまったく無害で従順な大名だと思っていたのかといえば、そうではなかったようだ。平川新氏は、その論文「政宗謀反の噂と徳川家康」(『東北文化研究室紀要』東北大学大学院文学研究科東北文化研究室編に所収)のなかで、次のように語っている。