だが、政宗の領地である東北から東南アジアへ航海するのは不利である。ならば、太平洋を横断してスペインの植民地であるメキシコ(ノビスパン)と直接交易したいと考えたのである。当時、江戸幕府はまだキリスト教を禁じておらず、家康自身も積極的に海外交易をしていた。
交易のもくろみもあって、以前から政宗はフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロを招き、領内での布教を許していた。布教を許可する大名のもとに貿易船が入港してくるからだ。政宗はビスカイノとソテロに対し、「領内に西洋船が入港できる良港をつくり、スペイン船の好待遇を約束するので、スペイン国王と親交を結びたい」と告げたという。
遣欧使節に家名復興をかけた支倉常長
ちょうどビスカイノとソテロが仙台にいた慶長16年(1611)12月、仙台領は慶長三陸大地震に見舞われた。大津波によって田畑が潮に浸かり、およそ1800人が犠牲になる極めて甚大な被害を出した。
そこで政宗は領内を復興させるためにも、ますますメキシコ(スペインの植民地)との直接貿易を希求するようになった。そして、その許可を求めるべく、スペイン本国への使節派遣を決断したのである。
ビスカイノも船がなくて困っていたから、自分が帰国するためにも政宗に遣使をすすめたのだろう。ビスカイノは造船知識が豊富で航海技術にも優れていたので、仙台藩に造船技術の提供を申し出たと思われる。

かくして政宗は、家康から使節団派遣の許可をもらい、慶長18年(1613)3月から西洋船(サン・ファン・バウティスタ号)の建造を開始した。ビスカイノの指導のもと、仙台藩の職人に加えて幕府の船大工も参加しての造船作業となった。
幕府の船大工は、家康の外交顧問であるウィリアム・アダムス(三浦按針)から西洋船建造の技術を伝授された者たちだったようだ。
こうして船が完成すると、同年9月、月の浦(石巻市)から約180名をのせたサン・ファン・バウティスタ号が出航する。船には海賊を撃退するための大砲も装備されており、仙台藩関係者だけでなく幕臣も同乗していた。