肥後細川家や長州毛利家では、元和2年(1616)に家康が伊達征伐のために東北へ出陣するという噂が流れており、イギリス商館長リチャード・コックスも家康と政宗の後ろ盾を受けた松平忠輝(家康の六男)の間に戦争が起こりそうだと日記にしたためている。
伊達家にも、家康がしきりに政宗のことを悪く言い、将軍秀忠に伊達征伐を命じたという情報(政宗の小姓による「木村宇右衛門覚書」より)が流れている。
そこで伊達家としては、徳川軍が攻め寄せてきた際の作戦を練っていたが、まもなく家康の側室於勝(おかつ)から「すぐに駿府の家康のもとへ出向き、誤解を解くべきだ」という書簡が伊達家に届く。家中では反対の声もあったが、政宗は出向く旨を於勝に告げ、ただちに駿府へ向けて出立した。
すでに病が重くなっていた家康だったが、政宗本人を寝間に通し、「お前について讒訴(ざんそ)する者があったが、それが誠ではないと思い、於勝に手紙を書かせた。謀反の意志があれば私のもとに来ないだろうが、お前はこうして来てくれた。私の考えた通りだ」と喜んだという。
ちなみに平川氏は、政宗のことを讒言したのは婿の忠輝だったとする。忠輝は大坂の役の不始末で家康から謹慎処分を受けており、それらの責任をすべて政宗になすりつけようとしたのではないかと推測している。
ヨーロッパで慶長遣欧使節が冷遇された背景
家康の政宗に対する疑いは解けたが、その死後にも政宗謀反の噂は流れている。これに関して平川氏は、将軍秀忠や幕府に「政宗がスペインと内応して蜂起するかもしれないという危機意識」(前掲書)があったのではないかと指摘する。
こんな話もある。寛永5年(1628)、大御所の秀忠が江戸の伊達屋敷に来臨した。このとき政宗は自ら秀忠のもとに御膳を運んでいった。すると、近くにいた内藤正重(秀忠の側近)が政宗に対し、料理の毒味を求めたのである。
さすがに政宗もムッとして「将軍に毒を盛るなら十年前にやっている。私は毒殺なんて卑怯なまねはせず、堂々と一戦を交える」と言い放ったと伝えられる。すでに政宗は還暦をすぎており、それにもかかわらず徳川譜代に警戒されていることに嫌気が差したようだ。