この慶長遣欧使節の正使はソテロ、副使は仙台藩士(600石)の支倉常長であった。常長は伊達家の重臣ではなく、ランクとしては中級家臣にすぎない。にもかかわらず使節として選抜された理由は、はっきりわかっていない。
ただ、常長の父親は前年に切腹を命じられている。窃盗や詐欺の罪だったという記録もあるが、これに連座して常長も所領没収のうえ追放処分を受けた。なのに使節に選ばれたのは、それだけ常長が頭脳明晰な人物であり、家名復興を約束することで死ぬ気で使命を果たしてくれると考えたからだろう。
政宗は天下取りの野望を持ち続けていたのか
よくいわれるのが、伊達政宗は秀吉に服属したあとも天下取りの野望を持ち続けていたということである。実際、秀吉にはかなり警戒されており、跡継ぎの関白秀次を謀反の罪で死に追いやった際も、政宗はあやうく連座しそうになっている。
そんな政宗だからか、慶長遣欧使節の派遣も、実はメキシコとの交易が目的ではなく、密かにスペインと同盟を結んでの倒幕を企んでいたのではないかという説がある。この説を聞いたことのある読者もいるかもしれない。
面白い説なので紹介していこう。慶長遣欧使節の通訳としてマドリードからローマまで同行したシピオーネ・アマチという歴史家がいる。そんなアマチが編纂した『伊達政宗遣使録』には、「支倉常長は、イタリア国王フィリップ三世に対し、奥州国を喜んでスペインの植民地として献上すると約束した」と記してあるのだ。
ソテロの手紙にも「政宗は次期の皇帝で、日本の最高実力者だ」と記されている。さらにフランス人のレオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』には、「将軍を倒すため、政宗がスペイン王に同盟を求めた」とある。これは明治初年にまとめられた本で時代が下るものの、パジェスは熱心な日本史研究者だった。
政宗のスペイン同盟説を裏づけるのが、慶長遣欧使節が出航する5カ月前の出来事である。幕府の代官として100万石以上を支配していた大久保長安が急逝した。すると幕府は、不正蓄財の罪で長安の息子7名を処刑し、親戚たちを改易にしたのだ。