プログラムでは、あいまいさは厳密な意味でゼロです。そもそもプログラミング言語の文法自体が、あいまいには書けない仕組みになっているからです。その意味でプログラミング言語は数式に似た特徴を持っています。

 それに比べて文章にはあいまいさがつきまといます。その例を挙げましょう。

 佐藤さんと鈴木さんの息子さんに会った。

 文章には厳密なルールがないので、こんな単純で短い文にも、あいまいさが入り込んでしまいます。この文章は3つないし4つの異なる意味に解釈できてしまうのでした。

 このように、文章とあいまいさはとても仲良しです。ガソリンが炎を引きつけるように、文章は、すぐにあいまいさの炎を引きつけます。文章を書くとき、この点に注意しないのは、ガソリンの近くで煙草を吸うようなものです。すぐに誤解の炎に包まれて、その文章の本来の意味が焼失してしまいかねません。

プログラムでの論理的誤りは
一語たりとも許されない

 プログラムと比較すると、文章には、あいまいさの他にもう1つの特徴があります。

 それは、論理的誤りに対する文章の寛大さです。かなりの量の論理的誤りが含まれていても、文章が読めないということはまったくありません。一応は、文章の体をなします。「ちょっと説得力に欠けるなぁ」という印象を与える程度です。

 ましてや、微量な論理的誤りが含まれているだけなら、文章はビクともしません。

 つまり、論理的誤りがかなり含まれている文章でも、たとえば社内での配布を禁じられるとか、出版を禁じられるとか、メール送信を拒絶されるといったことはありません。

 一方、プログラムの論理的誤りに対する寛大さはゼロです。時々「○○銀行の全国のATMが4時間にわたり停止した」といったことが報道されることがあります。こんな場合、たいていプログラムの中のミスが原因です。しかも、たとえば100万行のプログラム中のたった一語のミスでも、このような重大事故を引き起こすことがあるのです。

 一方、文章では、この論理的誤りに対する寛大さのせいで、世の中に説得力のない非論理的で意味不明な主張があふれているのでしょう。