連日、近くの日本海で海水浴に夢中になる八雲たち。そこにセツも合流しました。
千家邸に招かれ、古書画を見せてもらいます。踊りが好きだという八雲のために、大勢が集まって「豊年踊り」が披露され、大酒を飲み、夜中の2時まで楽しみました。
この旅の折、八雲は「君が代」を教わり、3人でよく歌ったそうです。不惑の年を過ぎていた八雲でしたが、セツと親友とともに、幼い日のように無邪気になれる休暇になりました。千家宮司との交流は八雲が松江を離れてからも、手紙や贈答のやりとりが続きました。
翌8月、セツと八雲は鳥取まで旅をしています。人力車に乗って、ゆったりと進む行程は「日本海に沿って」(『知られぬ日本の面影』)に弾んだ筆致で描かれています。法的な結婚の手続きを終えるのは先になりますが、まぎれもなく新婚旅行の趣があります。
八雲はこの旅の1年ほど前、松江に赴任する途中、山陰海岸の下市という集落のお寺で、盆踊りを見たことがありました。
晴れ着をまとった娘たちが輪をつくり、回り続け、やがて歌い出します。その不思議な旋律は西洋のものとはぜんぜん違い、目の前の情景が神話時代から変わらないようにも思えました。
「また、あの盆踊りが見たい」と、この旅の行き先に山陰海岸を選んだのですが、伝染病のコレラの影響で中止になってしまい、それはかないませんでした。
八雲の耳にはここで暮らしてきた地元民から湧いてくる民俗的な響きが心地よかったのです。
英国人の日本学者で、八雲を松江へといざなってくれたチェンバレンは「日本の音楽はミュージックという美しい言葉を汚すもの」と記していました。
これに反論するかたちで、八雲は松江から手紙を送り、この友人に率直な気持ちを伝えています。「私はアメリカでも日本でも高度な音楽的センスとは無縁とみなされる原始的な音楽に魅了されてきた」
水平線と波の音に包まれた
八橋が八雲の原風景
旅の途中、八橋(現・鳥取県琴浦町)という地に逗留します。







