体調を崩す…知られざる秀長の晩年
ただ、秀長は、九州平定戦後の1587年後半からは、体調を崩しがちになり、以後、出陣することはなくなって、京都や大和で政務に専念します。1589年頃からは、体調がさらに悪化したようで、1590年の小田原の陣には参陣していません。

そして、天正19年(1591)2月15日、居城の大和郡山城で息を引き取りました。享年52。死因ははっきりしていません。
また、秀長の正室は、智雲院(生没年不詳)。子供は、息子(夭折)と娘が一人秀吉と秀長――二人の人生とその家族(二人という説も)がいました。娘(大善院)は毛利秀元に嫁ぎますが、子供をなすことがなかったので、毛利家に秀長の血統は残りませんでした。
秀長自身の家督は、実の男児が夭折したため、養子に迎えていた甥の秀保(姉・智の息子、秀次の弟)が継ぎますが、秀保は秀次の死の4年後に17歳で病死。秀長の家は、豊臣氏の滅亡前に断絶しています。