靖国隊は、前月に特攻に踏み切った海軍が大きな戦果を挙げ、新聞やラジオ、ニュース映画がこぞって取り上げて国民が熱狂する様子を目の当たりにした陸軍が、「海軍の後塵を拝してはならない」と急きょ編成した8つの隊のひとつで、群山から東京立川の基地に移動して編成式を行い、鹿児島の知覧を経て、台湾、フィリピンへと進出していくのだが、立川などで撮影された映像が3分30秒ほどに編集され、「第235号日本ニュース」(編集部注/戦前より映画館で上映されていた短編のニュース映像)の項目のひとつ「比島戦線 陸軍特別攻撃隊『靖国』飛行隊」として全国の映画館で封切られている。

 公開は、靖国隊の初出撃の直後、11月30日のことだった。

 隊長の出丸(でまる)一男中尉の故郷・熊本市では、同じ時期に3名の陸軍士官学校出身者が特攻隊員として戦死していて、昭和20年1月8日に市内の青少年団員およそ800人が出席し、各少年団員が彼らを讃える自作の「綴り」の朗読を行って遺族に手渡したことが知られている。

 おそらく出丸家にもそうした綴りが贈られたのだろうが、出丸中尉の出身校でもある旧制濟々黌中学(現・県立濟々黌高校)のすぐそばにあったという自宅は、戦時中の空襲で焼失しており、そのためか残されていない。

 出丸中尉は2男3女の一番上で、甥(妹の息子)にあたる徹さんによれば、祖父母は出丸中尉のことについて、生前、多くを語ることはなかったという。

戦死した特攻隊員の
遺族に贈られた慰霊の品

 遺族の元に届けられた慰霊の品は、さまざまだった。

 谷川昌弘少尉(大阪出身)の遺族には、地元の洋画家・小磯良平の手による飛行服姿の肖像画が贈られており、村岡義人軍曹(山口出身)の自宅にも軍服姿の肖像画が飾られていた。

 誰がこれらの画家に依頼したのか、制作の経緯を表す証拠はまだ見つかっていないが、隊員の慰霊顕彰は軍と行政が中心になって行っており、そのいずれかだろうと考えられる。

 谷川少尉は、男ばかり5人兄弟の三男で、実家は寺だった。寺を継いだ長男の娘である青木明子さんが、谷川さんの遺品を受け継いでいた。