《新聞で特攻のニュースを見て、親兄弟、親戚じゅうびっくりだったらしいです。それからあれよあれよという間に大変やったみたいですね。大阪で初めてのほう(注)ということで、新聞にも載って、家の前には大きな標柱まで立って。
穏やかで、剣道が得意で、いいふうに言いましたら文武両道というか。優しい方だったそうです。やっぱり、家族としては残念やったんやと思います。
でも、なんでそんなことをしたんやとか、父(昌弘さんの長兄)は愚痴ることはなかったですね。お国のために命を捧げたんや、これはもう昌弘の運命やという感じで思っていたんじゃないでしょうか。昌弘さんが特攻隊で戦死したことを肯定もしませんし、否定もしませんし、受け入れたという感じでした。
戦後もその肖像画を、常に自分のそばに置いて大事にしていましたね。勉強机の横に置いたりして。やっぱり、軍服姿の写真だと、ちょっとつらいですやん。でも油絵のタッチだと、スッと受け入れやすかったみたいで、いつも近くに置いて大事にしていましたね。
(注)谷川さんは、大阪府全体で3人目の特攻隊員。11月7日、19日にそれぞれ1名戦死。》
穏やかで、剣道が得意で、いいふうに言いましたら文武両道というか。優しい方だったそうです。やっぱり、家族としては残念やったんやと思います。
でも、なんでそんなことをしたんやとか、父(昌弘さんの長兄)は愚痴ることはなかったですね。お国のために命を捧げたんや、これはもう昌弘の運命やという感じで思っていたんじゃないでしょうか。昌弘さんが特攻隊で戦死したことを肯定もしませんし、否定もしませんし、受け入れたという感じでした。
戦後もその肖像画を、常に自分のそばに置いて大事にしていましたね。勉強机の横に置いたりして。やっぱり、軍服姿の写真だと、ちょっとつらいですやん。でも油絵のタッチだと、スッと受け入れやすかったみたいで、いつも近くに置いて大事にしていましたね。
(注)谷川さんは、大阪府全体で3人目の特攻隊員。11月7日、19日にそれぞれ1名戦死。》
谷川家の前に立てられた標柱と言うのは、「軍神の家」などと書かれた木製の柱だと思われる。
同様の例は特攻隊員の遺族宅でしばしば耳にするが、香川県長炭村(現・まんのう町)出身の寺島忠正伍長の自宅前には、石作りの標柱が立てられ、今もそのまま残っている。
そこには「軍神 寺島忠正勇士の生家 陸軍特別攻撃隊靖国隊 昭和十九年十一月廿九日戦死」とあり、「長炭村銃後奉公会」が立てた、と刻まれている。
戦死した兄を弔いに
町中の人が家に押し寄せた
香川県から瀬戸内海を渡った対岸、岡山県琴浦町(現・倉敷市)出身の石井一十四(ひとし)伍長の故郷でも、遺族が熱狂のなかに放り込まれていた。
琴浦は、北にある「由加山(ゆがさん)」から流れる川で水車を回して糸を撚る「撚糸業」が古来盛んで、染織物の町として栄えてきた。石井家も代々、撚り上げた糸を染物屋に納めるのを生業とし、機屋とも縁戚関係を結ぶなど、町の一員として篤実に生きてきた。
一十四さんは、男3人女2人の5人兄妹の一番上。8歳離れた昭和4(1929)年生まれの妹に、話を聞くことができた。
石井津保美(つぼみ)さん。94歳とは思えないしっかりとした口調で、兄にまつわる思い出を語ってくれた。







