運動神経抜群、頭もよく、背も高く、朗らか。町の縫製の女工さんたちにたいそうもてたそうで、出征の日、最寄りの駅のホームが見送りの女性たちで埋まるほどだったという。
そんな兄の死を、津保美さんは2軒隣の家のラジオで知った。女学校3年、15歳の時のこと。挺身隊として織物工場に動員され、地味なカーキ色の兵隊の水筒紐を織る作業に明け暮れていたさなかだった。
すぐに町中の人が弔問客となって石井家に押しかけ、それがひと月以上にわたって続くことになる。
《今で言うタレントが、有名なタレントが来たら大勢集まる、あれと一緒ですよ。軍神でね。琴浦町には織物の小さい会社がたくさんあるわね。その人らがこぞって来てくださるんだから……。
もう落ち込む暇なんかありませんよ。まああれがのぼせるって言うんでしょうな。頭にパーッと。毎日毎日ね。こう頭が熱くなりますよ。血がのぼるって言うんですかね。心臓より上へ血液が回ってくるんじゃろうな。
何とも言えん感情でしたね。誇らしいとかいうのではない。どう表現したらいいか分からんぐらいの感情でした。》
もう落ち込む暇なんかありませんよ。まああれがのぼせるって言うんでしょうな。頭にパーッと。毎日毎日ね。こう頭が熱くなりますよ。血がのぼるって言うんですかね。心臓より上へ血液が回ってくるんじゃろうな。
何とも言えん感情でしたね。誇らしいとかいうのではない。どう表現したらいいか分からんぐらいの感情でした。》
死が迫る中みるみる
やつれていった兄
津保美さんの家には、一十四さんの飛行服姿の写真、そして戦死後にそれを模して描かれた巨大な肖像画が飾られていた。写真の一十四さんは、がっしりした顔立ちにさわやかな笑顔を浮かべている。
それを見た時、ちょっとした違和感を覚えた。日本ニュースの映像に映る靖国隊の隊員をひとりひとり特定していくなかで、この人が一十四さんではと目星をつけていた隊員がいたのだが、その映像とはあまりに違う表情だったからだ。
予断を与えないよう、「この映像の中に、お兄さんがいるかどうか、教えていただけませんか?」と津保美さんにお願いしてニュース映像を最初から見てもらう。
真剣な表情で画面を凝視していた彼女が、「あ、今最後に出た、こっちの端にいました」と大きな声を上げる。指さした先に映っていたのは、やはりその青年。隊員たちの中にあってひときわ、うつろな表情だった。
《間違いない、これが兄です。やつれました。やつれていますよ。特攻隊に行くようになったら。グッと痩せてきましたわ。自分が何日に発たんといけんと言われると、やっぱり人間だからな。日にちが限られて、時間も限られて飛び立つというのはね。
まあこの表情はね、兄としては深刻な顔に見えますな。冗談を言ったり、いたずらしたり朗らかな兄なので、そんなのとは違いますな。》
まあこの表情はね、兄としては深刻な顔に見えますな。冗談を言ったり、いたずらしたり朗らかな兄なので、そんなのとは違いますな。》







