日本軍を恐れてしばらくかくれて暮らしているうちに、まず長男が死に、その遺骸を裏の竹藪に埋めて2日もたたぬ内、また今朝方次男が後を追い、やがて赤ん坊まで危うくなるに及んで、通りかかった私たちに救いを求めたものです。

「ノーフード、ノーメドスン、ノーキニーン(食べものもクスリもない)」

 注射でいくらか元気を取り戻した父親が途切れ途切れの言葉で窮状を訴えます。乾パンと豆のカン詰の幾つかが乏しい中隊の糧秣の中からくめんされました。

 補給もままならぬこの奥地の作戦で、それは私たちにとっても全く貴重品だったのです。

「このパイカンをやって下さい」いつの間にか兵の間にも情報が伝わったとみえ、召集兵のH上等兵がシンガポール戦の時、焼けたパイナップル工場で拾った、思い出の珍品をもって入ってきました。

「おっ、物もちがいいな。まだそんなものがあったんかい。こりゃ私物検査の必要ありだぞ」と小隊長がからかうと、

「いえ、もうこれが最後の1つですわ」

 H上等兵はおどけた格好で、ひしゃげたパイカンをおし頂くと、自分で汁を1口吸ってから、はにかむ妹娘の両手に握らせました。

立て続けに子を失った一家に
マラリア治療薬を差し出した

 さて次に薬ですが、このマラリアの巣のようなビルマ奥地に作戦する私たち第一線の日本軍にも、作戦当初必ずしも十分なキニーネの準備はなかったのです。衛生兵の鞄の中のわずかな非常用、これはやたらに手をつけるわけにはゆきません。

 衛生兵の意見具申で、中隊全員からキニーネの供出を求めることになりました。もちろん私も秘蔵の1錠を提供し、かなりの数の黄色い錠剤が集められました。

 まるで宝もののようにおし頂いてキニーネをのむ親子と、それを見守る日本兵。私は胸につきあげてくる何かを感ぜずにはいられませんでした。

「ところでこの連中どうしたもんだろう。このままおいといたら助からんぜ。まさか大砲へのせてつれてゆくわけにもゆかん。せめてラシオまで後送してやれたら、野戦病院もあるし……」