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日韓友好が叫ばれて久しいが、敗戦直後に戦勝国側の証言のみで死刑が決まった日本兵たちは、処刑を目前にして国籍を越えた「友好の誓い」を結んでいた。マレー捕虜収容所でその一部始終を見届けていた泉淳氏が、『週刊朝日』に寄稿。その手記からは、日韓の絆が滲み出ていた。※本稿は、週刊朝日編『父の戦記』(朝日新聞出版)の一部を抜粋・編集したものです。
「こいつが私の亭主を殺した!」
この一言で捕虜の死刑が決まった
じりじりと照りつける太陽の下に、私たちは上半身裸体になって立ち並んでいた。マレー西岸の捕虜収容所の庭前である。
「お前たちの中には民衆を虐待した者がある。今、現地人によって首実検を行う」
英人将校のいうことを通訳が伝えると、マレー人や中国人の男女がぞろぞろやって来た。
これから戦犯収容所行きを決めるのだ。
「こいつだ。こいつが私の亭主を殺した!」
30くらいの中国人の女がわめくと、私の隣にいた本田兵長が英兵によって列外へつき出された。そこでもここでも現地人のわめきが起り、そのたびに1人ずつ日本兵の死刑が決まった。
この日、犯人として連行された者は11人だった。彼らは戦友と別れの言葉を交わすこともなく、英軍の銃口にとり囲まれて、連れ去られた。
それから3カ月間、われわれの上にも言語に絶する重労働が課せられた。ある時は胸までつかる肥だめの中へはいって、手で糞便をすくい上げねばならなかった。昨日まで直接敵対して戦った英兵たちは、日本軍にことのほかのにくしみを抱いていたようである。
しかしキャンプの監督が、実戦の経験のないスコットランド部隊に代ってからは、急に捕虜生活が楽になった。







