しばらくして、例の女の人が家から出てくるのが見えた。私は母に思わず言いました。「お母ちゃん、なんで別れへんの。僕ら兄弟、みんなお母ちゃんについていく。あんな怖い怖いお父ちゃんと、なんで一緒にいんの」と。
母の答えは、こうでした。「お父ちゃんは必ず変わらはる。戦争行く前の優しいお父ちゃんに戻らはる。せやから、せやから、それまで辛抱したげような」
戦争で変わってしまった
父は復職するも問題を起こす
父・桑原栄は1907年、広島県で生まれました。10代の頃に京都に出て、警察官になりました。勤務する派出所の前に住んでいたのが、母・フミです。母は小児麻痺で手足が不自由でした。父が見初めて「お嬢さんを下さい」と祖母に言うと、「この子は結婚できる体じゃない」と断られました。それでも「姿形はどうでもええ、優しい人柄にほれたんです」と食い下がったそうです。
母はそんな父に恩義を感じていたんでしょう。それに、当時の父は「優しい優しい人やった」と母はいつも言っていました。
1938年に父は陸軍兵士として中国へ出征し、1年後に傷病兵として帰ってきました。私が生まれたのは、その4年半後です。空襲警報のサイレンの中、自宅に掘った2畳の防空壕で母が産気づき、父が取り上げました。名前の「征平」の「征」は、出征兵の「征」だそうです。
父は復員後、警察に復職しました。ところが、人が変わったように荒くれ者になってしまっていたんです。まだ戦争が終わる前ですが、巡査だった父が、外国人たちのばくち現場に乗り込んだ時のことです。逃げる人たちを近くの河原まで追いかけ、持っていたサーベルでひとりの片腕を背後から切り落としたそうです。新聞沙汰になりました。
この件で山奥に左遷され、警察を辞めました。これらは私が生まれる前の出来事ですが、酒を飲んでは、私にも「悪い奴を斬ってやった」と自慢をしていましたから、よく覚えています。警察を辞めた後は職を転々とし、どれも長続きしなかったようです。母が不自由な体を引きずって働き、家計を支えました。







