しかし、実際の歴史を振り返れば、陸軍内で誰が指導的地位に就いたとしても、大きな流れを止めることはむずかしかったことがわかる。

 石原は、満洲事変を陸軍中央に無断で実行に移した。

 独断専行的だったにもかかわらず、処罰されるどころか出世コースに乗った。これは、石原の行動がたんなる個人的な暴走ではなく、陸軍改革を目指していた中堅幕僚層の広範な問題意識と響き合っていたこともあっただろう。

 結果的に、陸軍内には下剋上を黙認するような空気が広がることになった。だが、その空気はやがて石原自身に跳ね返ることになる。

 日中戦争が起こったとき、石原は、参謀本部の作戦部長(正確には第一部長。以下、通称を用いる)という要職にあった。

 トップの参謀総長・閑院宮載仁親王が皇族で事実上指揮を取らず、ナンバーツーの参謀次長・今井清が病臥中だったため、実質的に、石原が陸軍の軍令部門を統括していた。

 そんな石原は、日中戦争の拡大には一貫して反対の立場だった。かれは、ソ連との戦争に備えて満洲国の育成に集中すべきという立場だったからだ。

 ところが、中国に一撃を加えようと勢いづいた部下たちの暴走を止めることはできなかった。

石原の暴走を見た後輩が
言うことを聞くわけがなかった

 その予兆はすでにあった。石原は前年、参謀本部の戦争指導課長として、内蒙工作(内モンゴルを中国から切り離す工作。華北分離工作の内モンゴル版)に奔走する関東軍参謀の後輩たちに現地におもむいて自制をうながしたことがあった。

 だが、現地で待っていたのは、思いもよらぬ“歓迎”だった。関東軍参謀のひとりだった武藤章は、つぎのように応じたのだ。

 私はあなたが、満州事変で大活躍されました時分、この席におられる、今村(引用者註/均)副長といっしょに、参謀本部の作戦課に勤務し、よくあなたの行動を見ており、大いに感心したものです。そのあなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです。(『今村均回顧録』)

 武藤がそう言い終えると、周囲にいた参謀たちは一斉に大声で笑ったという。

 お前だって、満洲事変のときに中央の命令を無視して行動していたではないか。われわれはそれを内蒙でやっているだけだ――。石原は、この嫌味にたいして、何も言い返すことができなかった。