もっとも、こうした兼任は権力欲のあらわれというより、制度の枠内で政治的な指導力を発揮しようとする苦肉の策だった。
ヒトラーやムッソリーニのような独裁者は、長らくみずからに権限を集中させており、戦時下の指導もスムーズだった。
だが、日本では制度上それが不可能だったため、東条は“脱法的”な兼任によって、擬似的な独裁体制をつくり出そうとしたのである。神経質なまでに規則にうるさかった、軍官僚・東条らしいふるまいだった。
天皇の意向を守るため
戦争回避に奔走した
しかし、どれほどの要職を兼ねても、やはり限界があった。
開戦前の動きにもそれがよくあらわれていた。陸軍大臣としての東条は、もともと主戦派だった。だが、首相就任にあたって昭和天皇から「開戦を回避するように」との意向を受けると、自他ともに認める尊皇家だったかれは、その命を忠実に守ろうとした。
あまりに真剣に戦争回避に努めた結果、陸軍内部からは変節を疑われるほどだった。それでも、開戦を止めることはできなかった。
根っからの官僚型だった東条にとって、所定の手続きを踏んだ方針を覆すことはむずかしかった。同じ理由で、陸軍出身のかれは相対する海軍にまったく容喙できなかった。
そして1944年7月、サイパンが陥落すると、クーデターなどの混乱もなく、首相辞任に追い込まれた。他国の独裁者では考えにくいことだった。
戦後、東条は東京裁判でA級戦犯として裁かれ、処刑された。そのため、ヒトラーやムッソリーニと並んで語られることも多い。しかし、実像としての東条は、そうした独裁者とは程遠い存在だった。
型破りな軍人・石原莞爾なら
歴史を変えられたのか?
それでは、東条に代わって“型破りな”軍人が指導者となっていれば、日本の歴史は変わったのだろうか。
その候補としてよく挙げられるひとりが石原莞爾である。
石原は陸軍士官学校で東条の4年後輩にあたり、「世界最終戦論」を唱えるなど、思想家型の独創的な軍人として知られていた。満洲事変当時には関東軍参謀を務め、その首謀者でもあった。
その石原が順調に出世し、陸軍を主導する立場に就いていれば歴史は変わった。そんな期待が語られることもある。







