実際、その後に公開された多数の史料により、昭和天皇がさまざまな局面で明確な意志を示していたことも次第に明らかになってきている。ときには個々の作戦の展開に細かく意見を述べた事例もあった。

戦争を止めようものなら
暗殺されてもおかしくない

 とはいえ、近年公開された史料のなかでも、天皇が当時、「内乱」を強く懸念していたことが語られている。

 東条は、政治上の大きな見通しを誤つたといふ点はあつたかも知れぬし、強過ぎて部下がいふ事をきかなくなつた程下剋上的の勢が強く、あの場合若し戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になつたかも知れず、又東条の辞職の頃はあのまゝ居れば殺されたかも知れない。兎に角負け惜しみをいふ様だが、今回の戦争はあゝ一部の者の意見が大勢を制して了つた上は、どうも避けられなかつたのではなかつたかしら。(『昭和天皇拝謁記』三巻、一九五二年五月二八日)

 いささか読みにくいが、当時、下剋上の空気が蔓延しており、あの東条ですらそれを抑えることはできず、場合によっては暗殺された可能性もあったと天皇は述べている。

 五・一五事件や二・二六事件では、首相や首相経験者、陸軍の要職者までもが暗殺されており、天皇の懸念はけっして空虚ではなかった。

 また一部では、天皇自身が退位など「押し込め」を強制されるのではないかと恐れていたという指摘もある。

『「あの戦争」は何だったのか』『「あの戦争」は何だったのか』(辻田真佐憲、講談社)

 当時は男系男子の皇族が多数存在していたため、こうしたことは理論上、不可能ではなかった。

 もちろん、こうした事情が天皇の責任をすべて不問にする根拠になるわけではない。明治憲法のもとで天皇は「無答責」とされ、政治的責任を問うのはむずかしかったが、それが道義的・歴史的責任からの免除まで意味するとは限らない。

 そのいっぽうで、当時の制度的・政治的環境のなかで、天皇が実際に取り得た選択肢の狭さについても、われわれは理解しておく必要がある。

 仮に天皇が個人的な意志で戦争への賛否を最終的に決定できたとすれば、それはそれでまた別の問題を孕んでいただろう。