皮肉にも、この武藤は日中戦争開戦時に石原の直属の部下(作戦課長)となり、戦線拡大を主張して石原と対立している。

 日中戦争の拡大については、中国側も上海で積極的に攻勢に出たため、石原にすべての責任を帰せられるわけではない。

 ただ、結果的に思惑の外れた石原は陸軍内で孤立を深め、作戦部長の職を解かれ、京都の第一六師団長を最後に予備役に編入されることになった。

 石原の評価は、しばしば東条の“逆張り”として語られる。つまり、官僚的で実務型の東条で戦争に失敗したのだから、思想的で異端児の石原であれば違った未来があったのではないか、と。本人やその周囲も、そうしたイメージを積極的に喧伝した。

 だが、むしろ日中戦争前後の石原の行動には、そうした見立ての不可能性がすでにあらわれていたのではないだろうか。あの当時の陸軍という巨大かつ複雑な組織のなかでは、石原であれだれであれ、個人の意志を貫くことはきわめて困難だったのである。

主権者・昭和天皇なら
戦争を防げたのか?

 では、昭和天皇が開戦を止める可能性はなかったのだろうか。明治憲法のもとでは、天皇が主権者として位置づけられていたからである。

 近年、昭和天皇にたいする理解は大きく変化している。

 かつての通説では、天皇はみずからを立憲君主と位置づけており、政府と統帥部の一致した意見については反対できなかったとされていた。もちろん、天皇がみずからの強い意志を示したケースもいくつかあったものの、日米開戦という重大な決定についてそのようなことをすれば、国内の世論が沸騰し、クーデターが起こり、より破滅的な戦争論が支配的になっただろうと天皇自身が述懐していた。

 このような見方の根拠となったのが、平成初期に公開された『昭和天皇独白録』だった。昭和天皇の肉声を記録したとされるこの史料は大きな反響を呼び、昭和天皇は抑制的な君主であったというイメージを定着させるにいたった。

 しかし、その後の研究が指摘するように、この独白録は、東京裁判を意識して作成されたものだった。そのため、天皇が戦争責任を問われないよう、意図的に抑制的な君主として描かれた可能性が高いと考えられている。