帝国ホテルの厨房で雑用係としてくすぶっていた若き三國清三がビッグチャンスをゲットした理由とは?写真:キッチンミノル

東京・四ッ谷で、予約の取れないフランス料理レストラン「オテル・ドゥ・ミクニ」を37年間にわたって経営していた三國清三(みくに・きよみ)。日本でも屈指のシェフとして活躍する三國だが、その原点はどこにあるのか。貧しい生活の中で料理人を夢見て苦労を重ね、20歳でスイスの日本大使館の料理人に大抜擢されるまでの足跡を語る。※本稿は、シェフの三國清三『三國、燃え尽きるまで厨房に立つ』(扶桑社)の一部を抜粋・編集したものです。

札幌の米屋で丁稚奉公
夜は調理師学校に通う

「どうして料理人の道を選んだのですか?」と、問われることがある。

 選ぶもなにも、僕の目の前には一本の道しかなかったのだ。貧乏であればあるほど人生の選択肢は狭まる。だから、目の前の道をひたすら前へ前へと進んできた。それに、正直に言ってしまうと、食べていければなんでもよかったような気もする。

 増毛(編集部注/出身地である北海道の増毛町)を離れ札幌に出たのは15歳のとき。クラスメイトのほとんどが高校に進学していたけれど、うちには経済的な余裕がなく、兄も姉も中卒で働いていた。高校になんて行かせてもらえるはずがない。

「でも、僕はどうしても学校に行きたいんです」

 担任の先生にそんな話をしたように思う。すると先生が、札幌の米屋での丁稚奉公の口を見つけてきてくれたのだ。昼間米屋の仕事を手伝えば、給料がもらえるばかりか住むところも食べるものも与えてもらえ、夜は学校へも通わせてくれるという。夢みたいな話じゃないか。

「調理師学校なら資格もとれるよ」と、先生。

 よし、決めた!思えばあれが、料理人への第一歩を踏み出した瞬間だった。