彼の留守中に納屋に入ってつづらを開けると、そこには見ず知らずの女の姿が――。こんな女と、毎日こそこそ逢引していたのかと、大喧嘩になったというのが『松山鏡』の大まかなあらすじです。

 ちなみにこの噺には、激しい夫婦喧嘩を見かねた尼が、「私がその女に言って聞かせましょう」と仲裁に入って鏡を見ると、「ほら、彼女は反省して髪をおろし、尼になりましたよ」というオチがつくのです。

 鏡を知らない三人が、鏡に映る自分の顔を各人の枠組みの中で、三者三様の解釈をするという、なんとものどかな噺です。

人は未経験のものに対して
既存の枠組みで考えてしまう

 人は初めて触れた技術に対しては、かくも滑稽な振る舞いをする生き物であるという、教訓めいたものも感じさせます。

 調べてみると、そもそも鏡の起源というのは思いのほか古く、紀元前から存在していたのだそうです。日本においても弥生時代に相当する紀元前300年頃には、金属を磨いてあつらえた「銅鏡」の存在が確認されています。

 もっとも、この時代の鏡は自分の容姿を確認するためのものではなく、何らかの儀式や祭祀に使われる道具だったようで、化粧用具として使われるようになったのは平安時代、それも貴族のためのものでした。

 当然、鏡は庶民に手の届くものではなく、自身を写すための鏡の原点は、水面であったといわれています。水面に自らの顔が映っていることに初めて気がついた時、人はどのような心境になったのか、非常に興味深いところです。

『松山鏡』のエピソードのように、鏡という存在そのものを知らない人にとっては、自分の顔を他人の顔と認識してしまうのは、いかにもありそうなことでしょう。人は未経験のものに対し、既存の自身の枠組みの中で解釈しようとしてしまうのです。

 いま、AIの技術は想像以上のスピードで一般化しています。スマートフォン検索にAI要約が添えられ、ビジネスでも資料作成の一部をAIに任せる人も増えました。

 知人の大学教員は従来型のレポートだと、自分で考えないでAIで済ませる学生が多いので、課題の与え方にも工夫が必要だと語っていました。