
三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第79回は「生成AIとの向き合い方」について考える。
AIとの付き合い方、“これからの理想型”は…
東大合格請負人・桜木建二は、勉強習慣を身につけるために新しいアプリを使うよう生徒にアドバイスし、常にアップデートをすることが東大合格への秘訣だと解説する。
技術がアップデートされることは、当然勉強や教育にも影響を与える。特に今顕著なのは、AIを利用した勉強だ。今年8月にOpenAIからChatGPTの新モデルGPT-5が発表され、「博士号を持つ友人」のレベルだと評判だ。
一方で、大学の成績評価の季節になり、AIを利用した学生のレポートに嘆く、教員のSNS投稿をよく見るようになった。「存在しない論文が参考文献として挙げられている」「AIの出力をそのまま書いたと思われる『他に聞きたいことはありますか』という文言が含まれていた」など、先生方にとっては頭が痛くなるような話だ。
残念ながら東京大学とて例外ではない。AIの不適切な使用により単位を落とした友人もいる。
もちろん、AIを使用することそのものがNGというわけではない。私自身、レポートを書く際に、論文の要約や、自分の主張が論理的であるかの確認などでAIを使うことがある。細かい話ではあるが、文章の校閲や参考文献の書式統一などは、まさにAIの得意分野だ。
私の友人は、同じ授業の小レポートに対して、ある時はAIを全く使用せずに、ある時はAIの助けを借りながら取り組んだという。その結果は、AIを使用した時の方がいい評価を得られたという。
彼はもともと東京大学の中でもトップレベルの成績の持ち主だ。より正確に理解しよう、より厳密な議論をしようという意図のもとにAIを使用するのは、これからの理想型になるだろう。
「消化試合のような大学生活」にしないために

より危機感を覚えるのは、AI回答をコピーした痕跡を隠滅する努力すらしないほど、学問に対する意欲がなくなっているケースだ。AIが書いたものを丸ごと写してレポートを書いていいといった心構えは、もしかしたら、元々あった「意欲のなさ」が露見したのかもしれない。
自分で選んだ進路のはずなのに、自分で選んだ授業のはずなのに、その選択に対して主体的に向き合おうとしないのはどういうことだろうか。
「これは私にとって意味はない。だから、やりたいことに時間を使うため、AIに代替させる」というならまだいい。「私はこれをやりたい。だが、どんなに頑張ってもAIが出すものに及ばない」という無力感を生んでいるのであれば、学ぶことの意味を見つめ直す必要がある。
さらにいえば、「別に学問に興味がないのに、大学を卒業しないと就職できないから、やむを得ず取り組まなければならない」という意識がまん延しているのであれば、その構造自体が修正されるべきだ。
例え意欲が全くなかったとしても、今までは各種の課題を自力でやる必要があったため、学びのフレームワークを強制的にでも身につけさせることができた。
だが、それすらもAIが代替するとなれば、生徒にとっても教員にとっても長い消化試合のような大学生活が生まれてしまう。高等教育機関としての大学の意義が問われてくる。
AIの急速な発展に代表されるように、多くのツールが登場した。だが、そのテクノロジーが商業的な側面ばかりを目的としているあまり、かえって学ぶことを阻害しうるツールも少なくない。例えば講義を自動的に要約してくれるツールは、どの程度使用するべきなのか。
技術のアップデートを常に追い続けるとともに、あえてツールを使わないという選択ができるかどうかも重要だ。

