日本では無名だったアドラー心理学を解説し、シリーズ世界累計1800万部を突破した『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』。アドラー心理学を理解するうえで「地図」と「コンパス」の関係にあるこの2冊は、哲人と青年の刺激的な対話篇で構成されている。
「誰かの対話」を楽しんでいたはずなのに、いつの間にか「自分の悩み」が語られていることに気づき、ページをめくる手がとまらない……。そんな両書の「読者を惹きつける理由」を、著者・岸見一郎氏と古賀史健氏が刊行12年を期して公開された公式動画で語った。本記事ではその一部をダイジェストでご紹介する。
『嫌われる勇気』という地図と『幸せになる勇気』というコンパス
古賀史健(以下、古賀):『嫌われる勇気』をつくるとき、10年後に古典になっているような本にしたいと岸見先生や編集者と話しました。僕はそのとき、もし100年前にこの本が存在していても当時の人がちゃんと読んでくれるように、あえて古い本をつくるといいのかなと思ったんです。
そこでインターネットやSNSといった要素を排し、舞台設定も100年前からあったような登場人物の職業や部屋を意識しました。アドラー自身も実際に100年前の人間ですし。そんなイメージで本づくりをしたのが、今も新たな古典のように読まれている要因の一つなのかなという気がしています。
『幸せになる勇気』も同じ舞台設定で『嫌われる勇気』の3年後に出版しました。『嫌われる勇気』が多くの方に読まれ、アドラーの思想もある程度行き渡っていたのですが、一方で多くの誤解も生まれていました。その誤解を解かなければという思いが『幸せになる勇気』を出した一つの理由です。
また、アドラー心理学というのは実践・実行を求める心理学だと僕は理解しています。『嫌われる勇気』でアドラー心理学の概要を学び、それを実践・実行に移したとき、さまざまな問題が生じて道が分からなくなることがある。そのとき進むべき方向を示すためのコンパスをつくろうと。これが『幸せになる勇気』の元々の出発点だったと思います。
岸見一郎(以下、岸見):『嫌われる勇気』がアドラー心理学の概観を知る「地図」だとすると、その実践から生じる疑問の一つ一つに丁寧に答えていったのが、「コンパス」としての『幸せになる勇気』だと私も理解しています。『嫌われる勇気』ですでに完成していると思っていましたが、『幸せになる勇気』とセットになることで、より深い理解を得られるようになったと思うのです。
『嫌われる勇気』でたくさんの疑問を持たれた方も、『幸せになる勇気』を読まれると、自分の理解が足りなかった部分や、どういう行動を起こせばいいかが具体的に分かると思います。

読者を巻き込んでいく対話篇の魅力
古賀:『嫌われる勇気』の1行目は、青年の「では、あらためて質問します」という言葉から始まります。
こうして始まるということは、すでに哲人と青年はたくさん語り合っていて、読者は偶然その場に居あわせてドアの向こうで耳をそば立てて聞いている、目撃者になってしまったような状況です。そして、注意深く2人の会話を聞き始めたらもう後には戻れなくなる……。
「助走があって本番」みたいなことではなく、いきなり哲人と青年が突っ走っていて、議論が始まっているところに遭遇した読者は参加せざるを得なくなる――そんな形をイメージした憶えがあります。
岸見:自分に話が向けられると、緊張したりうまく話せなかったりすることがありますが、他者が話しているのを聞くのは楽しいですよね。しかも、その話が自分と関係のない話ではなく、まさに哲人と青年が「自分のこと」を話していると感じ始めた途端、身を乗り出して聞かざるを得ない。すでに始まっている会話に「読者が巻き込まれる」という設定は面白いと思います。
古賀:それが対話篇の魅力なんです。『嫌われる勇気』を対話篇でやろうと思ったのは、もしこの本をアドラー心理学の専門家による講演のように訥々と語る本にしたら、多くの読者を惹きつけられないと思ったからです。
対話篇であればそこに読者を巻き込むことができる。講演会などもそうだと思うのですが、演壇で講演者が1人でしゃべっている時間は案外退屈で寝たりする人が多い。でも1人語りが終わって質疑応答の時間になるとみんな目を覚まします(笑)。自分が巻き込まれるかもしれないし、自分も質問をしないといけないかもしれない。あるいは他の人がどんな質問をするのかも気になる。
岸見:気になりますね。
古賀:質疑応答のほうが面白いんですよ。その面白さが、もしかすると『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』にはあるのかもしれません。
岸見:私はもともとギリシア哲学を専門にしていました。特にプラトン哲学を研究していたのですが、彼の著作の大半はまさに対話篇なのです。
たとえば、ソクラテスと若い人が2人で話し合う。しかし、『嫌われる勇気』も同じですが話し始めたときにはまったくなんの計画もないのです。どのような結論になるかをソクラテスも対話相手の青年もわかっていない。そういったどこに行くかわからない対話は非常に面白いですよね。
私は講演では一応アウトラインを考えます。最後まで見通した状態で話し始めますし、聞いている人も早く結論を聞きたいと思っているかもしれません。しかし、質疑応答になるとどのような話になるかわからない。質問に答える私自身も答えられるかどうかわからないのです。
実際にプラトンの対話篇では、たとえば「勇気とはなにか」というテーマで話が始まります。では最後に「勇気とはこういうことだ」という結論に到達できるかというと、できていないのです。結局「私たちはなにもわかっていなかった」というところで終わっています。でも、それが面白いのです。
『嫌われる勇気』も計画されていないどこに行くかわからない対話の面白さを描けています。読者が「面白い」と感じられる構成だと思います。
対話を通して「理解の階段」を登っていく
古賀:本を完成させるプロセスで構造はすごく大事ですし、『嫌われる勇気』も『幸せになる勇気』も、しっかりと構造を組み立てています。
ですが、そのベースとなるアドラー心理学やギリシア哲学については、なにも知らない僕が岸見先生を訪ねてたくさんの質問を重ねました。
僕はライターであり取材者という立場なので、自分はある程度納得しても「まだこういう疑問を持つ読者がいるかもしれない」と読者を背負っている気持ちで、それを代弁するようにたくさんの質問を重ねていきます。
『嫌われる勇気』の場合、第一章、第二章という形ではなく、第一夜、第二夜というように、青年が哲人のところにやってきて議論をし、ある程度納得するとその夜は帰っていくという形式をとっています。けれど青年は、よくよく考えて「まだここが気になる」となり、また哲人のところを訪れるという構造にしました。
これは理解の階段を登っていくような感じです。第一夜のフロアでは、ある程度アドラー心理学をまわり尽くした。でも、まだなにか先がありそうだと次の階段を登っていく。するとセカンドフロアがあって、また多くの疑問や質問を哲人にぶつけて、そこでもある程度納得した。でもまだ階段があり、どんどん理解の階段を登っていくと、最後に屋上から美しい景色が見える。そういうイメージで構成したことを覚えています。
岸見:哲人自身も青年と話すうちに、自分が実はよくわかっていなかったことに気づかされる場面が多々あります。そこで戸惑いや困惑を感じるのではなく、「あ、そうか、そんなふうに考えることもできるのか」と、すでにわかっていると思っていたことが1人のときより深く考えられるようになったと気づくのです。
『嫌われる勇気』も『幸せになる勇気』も、そうしたプロセスまで描けているところが面白いのです。おそらく読者の方も、対話の楽しさ、面白さを感じていただけると思います。
(本記事は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の公式動画をもとに作成しました)





