主観的自己が意識的に経験したことは、記憶(客観的自己の一部)になり、記憶は呼び覚まされると、再び主観的自己の意識に入り込んでくる。

『LIFE UNIVERSITY もし大学教授がよい人生を教えたら』書影『LIFE UNIVERSITY もし大学教授がよい人生を教えたら』(ブルース・フッド著、櫻井祐子訳、サンマーク出版)

 私たちがふだん「自己」と感じている感覚は、意識の流れが整然としていて、統一性、持続性、主体感があり、自主的だと感じられる時に生まれる。

 でもだからといって、自己がそれ単体で存在するのではない。自己という全体的な感覚は、個々の意識や思考、記憶、経験などの要素が組み合わさって生み出されるものであり、それらの要素がなければ存在し得ない。それらの要素とは別に、「生まれつき」または「独立して」存在するわけではない。

 だから私は、自己は「錯覚」、つまり見た目とは違うものだと言っているのだ(注2)。

 これは、「自己」という経験や感覚が存在しないと言っているのではないが、その「自己」というものは私たちがふだん単純に思っているような、固定的でまとまった1つの実体ではない、ということだ。

(注2)Hood, B. (2012), The Self Illusion (London:Constable & Robinson)