会場では「2位やな」と囁き合っていましたが、2位指名でも名前が出ない。3位でも、4位でも出ない。会場の雰囲気は、どんどん重くなる。そして、6位まですべての指名が終了。結局、古田さんの名前が出てくることはありませんでした。
舞台上の古田さんは、いたたまれませんでした。テレビ中継で指名選手の名前が読み上げられるのを聞きながら、下を向いて落ち込む古田さん。パッと顔を上げても、会場の誰も目を合わせてくれない。そんな古田さんを励ますためでしょう。監督が立ち上がって、球団に対して激しい怒りをぶつけたそうです。
衆人環視のなかで恥をかかされた古田さんは、茫然自失の状態で寮に戻ると、実家に電話をかけて「あかんかったわ」と報告したそうです。すると、お母様は「あんたね、こんなことで負けたらあかんよ」と激励。「世の中の人全員見返したれ。おかんも頑張るわ」と檄を飛ばしたのです。
「生き残る方法」を見出したら、あとはハードワークするのみ
この「世の中の人全員見返したれ」という言葉が、古田さんの心に刺さります。
そして、「そうやな、頑張るわ」と電話を切ると、こんなことを考えたそうです。
自分も恥をかいたし、親も恥をかいたし、監督も恥をかいたし、学校も恥をかいた。これは、真剣に見返してやらなければいけない。
では、「見返してやる」とはどういうことか? 大学4年のときに、12球団すべてに「古田はプロでは通用しない」と思われたわけだから、向こうから「来てほしい」と言われるような選手になるしかない。それが「見返す」ということだと、気持ちを奮い立たせたのです。
そして、縁あってトヨタ自動車の野球部に入部。2年後にドラフト指名されるためにどうすればよいか、戦略を徹底的に考えたそうです。
まず初めに、現状把握から着手。人づてにリサーチしたところ、「メガネをかけた選手で大成した選手はいない」というのがドラフトから漏れた理由だと判明。乱視がきついので、コンタクトに替えることはできない。だったら、俺がメガネをかけて成功した最初の選手になればいいと腹をくくって、猛烈な練習を始めました。
また、1988年のソウル五輪代表に選ばれるために、監督がどんな人で、どんな選手を望んでいるかもリサーチ。その選手像に近づくために、自らのプレイスタイルを変えるとともに、自分の存在を積極的にアピールしていきました。
そして、当初は控え選手でしたが、正捕手の座を奪取。野茂英雄投手らとともに、銀メダルを獲得する大活躍を見せました。
こうして、あらゆる努力を重ねながら、選手としての実績を積み、存在を強烈に印象づけた結果、2年後、見事にドラフト指名を獲得。ヤクルトへの入団を決めた古田さんは、野村克也監督の英才教育のもと、球界を代表する名捕手へと育っていったのです。まさに、完璧な形で「世の中の人全員を見返した」のです。
古田さんは、当時をこう振り返ります。
「若かった僕にとっては、ものすごくつらい経験でしたが、今となれば『いい経験』をさせてもらったと思っています。この2年間、「ドラフト指名を受ける」という目標を立てて、それを成功させた経験が、自分にとって自信になったからです。
生きていたら難題ばっかり。困ったことばっかり。人生、逆境の連続ですよ。それをクリアしていかないと、生き残っていくことはできない。どうやったら生き残れるかを見極めて、あとはハードワークする。あのときの逆境のおかげで、その成功体験をすることができたのは、僕の人生にとって大きかった」
「逆境」を乗り越えたときに、「見える風景」が変わる
この言葉に、僕はすごい説得力を感じます。
僕は、古田さんほどの「逆境」を経験したことはないし、古田さんほどの「成功」を収めたこともありません。だけど、僕なりに痛切な逆境体験はありますし、それを乗り越えるプロセスで多くのことを学んできました。
たとえば、両親が自己破産をしたことで、当時通っていた早稲田大学の学費が払えなくなったことがあります。即座に退学を決意して、大阪の実家に帰ると、ひどい状況でした。本当にお金がない。ご飯を食べるのもままならない状態だったのです。
長男である僕は、大学はあきらめて働くほかないと思いました。しかし、高卒のヤンキーだった両親にとって、息子が大学を卒業することは悲願だったのでしょう。「お金はなんとかするから、絶対に大学は出ろ」と猛反発。「こんな状況なのに、そんなことできるわけないやろ?」と言い張る僕と大喧嘩になりました。
そこに割って入ったのが祖母でした。
「長年積み立ててきた生命保険を解約したら、お金はつくれる。それで、お前は大学に行け」と言うのです。それで僕は一念発起。現役時代と浪人時代と二度も受験に失敗していた京都大学への再受験を決意したのです。京都大学は国立大学であるため学費も安く奨学金でカバーできる可能性があったからです。
ただし、受験までに残されていたのは約2ヶ月。普通に考えれば「無理」な話ですが、逆にそれがよかった。追い込まれていたからこそ、「なにくそ」と踏ん張りがきいたように思うのです。
そして、この逆境のおかげで受験勉強を舐めていた自分と京都大学にリベンジする絶好のチャンスが訪れたんだと自分に言い聞かせて、受験勉強に没頭。寝ている以外の時間はすべて勉強していたと思います。我ながら、集中力も半端じゃなかった。それで、なんとか合格することができたのです。
このときも、渦中にあるときはたいへんでした。
だけど、逆境を跳ね返すために必死でもがけば、なんとかなるんです。そして、あとになって振り返ってみれば、あんなにつらかった「逆境」が、自分にとって大きな意味をもたらしてくれていることがわかります。きっとそれは、伊達さんや古田さんが経験されたことと同じだと思うのです。
そして、こうした経験を重ねることで、「逆境」に対する解釈が変わってきます。
もちろん、「逆境」に耐え、「逆境」を乗り越えるのが、たいへんなことであることに変わりはありません。しかし、「この逆境には意味がある」「この逆境で成長ができる」「この逆境が幸運をもたらす」などと解釈することができるようになったとき、僕たちはこの厳しい人生を生き抜く「強さ」を身につけることができるのです。
(この記事は、『超⭐︎アスリート思考』の一部を抜粋・編集したものです)
AthReebo株式会社代表取締役、元プルデンシャル生命保険株式会社トップ営業マン
1979年大阪府出身。京都大学でアメリカンフットボール部で活躍し、卒業後はTBSに入社。世界陸上やオリンピック中継、格闘技中継などのディレクターを経験した後、編成としてスポーツを担当。しかし、テレビ局の看板で「自分がエラくなった」と勘違いしている自分自身に疑問を感じ、2012年に退職。完全歩合制の世界で自分を試すべく、プルデンシャル生命に転職した。
プルデンシャル生命保険に転職後、1年目にして個人保険部門で日本一。また3年目には、卓越した生命保険・金融プロフェッショナル組織MDRTの6倍基準である「Top of the Table(TOT)」に到達。最終的には、TOT基準の4倍の成績をあげ、個人の営業マンとして伝説的な数字をつくった。2020年10月、AthReebo(アスリーボ)株式会社を起業。レジェンドアスリートと共に未来のアスリートを応援する社会貢献プロジェクト AthTAG(アスタッグ)を稼働。世界を目指すアスリートに活動応援費を届けるAthTAG GENKIDAMA AWARDも主催。2024年度は活動応援費総額1000万円を世界に挑むアスリートに届けている。著書に、『超★営業思考』『影響力の魔法』(ともにダイヤモンド社)がある。








