正直、シャバにいた頃の僕だったら、「えっ?」と引いていたと思う。そもそも、きな粉自体あまり好きではなかった。しかしあの環境の中では、きな粉ごはんが意外なほど「アリ」だった。
というより、むしろ喜んで食べていた。あの閉鎖的な世界の中では、ほんの少しの変化や甘みが、味覚に刺激を与えてくれる。味覚は〈絶対的なもの〉ではなく、〈相対的なもの〉なのだということを実感した。
真夏の麦茶はドンペリに勝る!?
飲み物も、そうだ。夏の炎天下、運動のあとに支給された冷たい麦茶――あれはとんでもなくうまかった。
ゴクッと飲んだ瞬間、「これはドンペリよりうまい」と、本気で思ったぐらいだ。あのしみわたる感覚はいまでも忘れられない。つまり、料理や飲み物の本来の味なんて、意外と意味がないのかもしれない。
『僕が料理をする理由 ~AI時代を自由に生きる40の視点~』(堀江貴文、オレンジページ)
食材や調理法にこだわるのももちろんいい。でも、それ以上に「どこで、どんな状況で、どんな気持ちで」それを口にするか――その組み合わせこそが、〈味〉の決定因子になる。
僕はいま、好きなものを好きなタイミングで、好きなだけ食べることができる。全国のうまい店にも通い、美味しい食材もたくさん食べてきた。
それでも、あの刑務所で飲んだ麦茶ののどごしや、チョコレート菓子の甘みの記憶は一生消えることがないだろう。
人間の感覚なんて、本当にあっさりと環境に左右される。
そして逆に言えば、〈うまい〉を生み出したければ、食材や味つけを工夫するよりも、それを食べるまでの体験や周りの環境を変えたほうが早い。食事にストーリーを持たせる。料理を演出するというのは、そういうことなのだと思う。







