「貴様は戦地が長すぎる」
友人の推薦でテストパイロットに
南太平洋海戦は、結果的に、日本海軍の機動部隊が米海軍の機動部隊に対して互角以上にわたり合った最後の海戦となったが、ここで148名もの練達の搭乗員を失ったことは、以後の作戦に重大な影響を与えることになる。
隼鷹は、10月30日、日本海軍の中部太平洋の拠点・トラック泊地に入港した。
「トラックに海軍省の人事局員が来ていて、呼ばれて行ってみると、『いや、ご苦労様。君、悪いけど内地転勤はないんだ』と言う。『望むところです。いまなら戦場の勘にひたっていて、どこまでもやれます。一度帰ると、また出たときにやられるから、当分戦地に置いてください』というわけで、こんどは飛鷹飛行隊長の内示が出たんです。
ところがすぐにその転勤が取り消しになって、こんどは空技廠(航空技術廠)飛行実験部員の転勤辞令と、前任者のクラスメート・周防元成大尉からの手紙が届きました」
その手紙には、
〈貴様は戦地が長すぎる。いつまでも置いておくと死ぬから、飛行実験部員に推薦しておいた。零戦ではこれからもたないと思うから、頼むぞ。貴様なら新型機の最終速試験もやってくれるだろう〉
という意味のことが書いてあった。手紙とともに、それまでの飛行実験のデータを記したノートが添えられ、書きおきを残して、周防大尉は第二五二海軍航空隊の飛行隊長として転出してしまっていた。テストパイロットの仕事は、戦場とはまたちがった意味で危険やむずかしさの伴うものだった。
「空技廠の頃が、いちばん真剣に仕事をしたかもしれない」
とも、志賀さんは言う。
その後、2年近くにおよぶテストパイロットの期間中、志賀さんの仕事のなかで大きなものは、まず川西航空機が開発した紫電改の実用化、つぎに、零戦の後継機として三菱航空機が開発した烈風のテストだろう。







