ただ、皇族とともに学び、鍛えられた経験をもつ海軍士官は、ずっとのちになっても、国粋主義者や陸軍の一部勢力が唱えたような、神がかりでフィクショナルな天皇観にはついていけなかった。

「でもそれは、軍人としての立憲君主に対する忠誠心とはまったく別の問題でした」

 と、志賀さんは語っている。

 最上級生になった昭和9(1934)年5月27日、東郷平八郎大将率いる連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を破った日本海海戦から29年の海軍記念日の式典で、志賀さんにとって将来の希望進路を決定づける出来事があった。

 この日、紺の第一種軍装姿で練兵場に整列した生徒たちの上空で、空母龍驤分隊長・源田實大尉以下、青木與、永徳彰の世に言う「源田サーカス」が、編隊アクロバット飛行を披露したのだ。

「感激しましたね。腹の底から響く爆音、すごい迫力でした。親友の周防元成(のち少佐、海将)、高橋忠夫(昭和十二年殉職)とともにすっかりイカれてしまい、飛行機乗りになることを改めて誓いました」

真珠湾攻撃を終え
アリューシャン作戦に参加

 昭和16(1941)年4月、空母加賀戦闘機先任分隊長になった志賀さんは、ここで開戦を迎えることになる。乗機は零戦になっていた。

 真珠湾攻撃を終えた加賀は内地に帰り、年を越して昭和17(1942)年1月9日にはふたたび出撃、1月20日、南太平洋・ニューブリテン島のラバウル攻略戦に参加した。

 さらに昭和17年4月、内地に帰った志賀さんに、完成したばかりの空母隼鷹飛行隊長の辞令が届く。隼鷹は、日本郵船のサンフランシスコ航路に使われる予定であった大型客船橿原丸を、建造途中で海軍が買収、空母に改造した艦である。

 ここで志賀さんは、ミッドウェー作戦の陽動作戦として実施されたアリューシャン作戦に参加。さらに米軍によるガダルカナル島侵攻がはじまると、トラックを経てソロモン諸島方面に出撃した。志賀さんは、10月17日のガダルカナル島爆撃と、10月26日の南太平洋海戦に参加している。