アドラー心理学の重要キーワード「課題の分離」。自分の課題と他者の課題を分離したうえで、「他者の課題には踏み込まない」「他者に自分の課題に踏み込ませない」とする考え方だ。
しかし、この考え方は多くの人に誤解されているとベストセラー『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の著者、岸見一郎氏と古賀史健氏は語る。「課題の分離」は、あくまでも対人関係におけるスタート地点。課題に境界線を引いて終わらせず、対話と理解を通じて、必要なときは“共同の課題”に育てることこそ、分断の時代を生き抜くカギだという。
現代人にとって本当に必要な「アドラー心理学」のエッセンスを、このたび公開された『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の公式動画からダイジェストでお送りする。
「課題の分離」とはなにか?
岸見一郎(以下、岸見):アドラー心理学における「課題の分離」とは、簡単に言うと、「あることの結末が最終的に誰に降りかかるか」「あることの最終的な責任を誰が引き受けなければならないか」によって、その「あること」が誰の課題なのかを考えることです。
たとえば、「子どもが勉強しない」とカウンセラーに相談に来られる親御さんが多いですが、勉強するかどうかはいったい誰の課題なのか? これは明らかに「子どもの課題」です。
勉強しなければその結末は自分に及びます。勉強しなければその責任は自分が引き受けるしかない。そうであれば、親は子どもに「勉強しなさい」と言ってはいけないし、言えないのだというのが「課題の分離」の考え方です。
およそあらゆる対人関係の問題は、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは踏み込まれることから起こります。ですから、誰の課題かをはっきり見極め、課題を分けることが対人関係を良くすることだと言っても間違いではありません。
とはいえ、課題の分離は、対人関係の最終的な目標ではありません。最終的な目標はなにかと言えば「協力」です。
たとえば、子どもが勉強をできないと悩んでいるときに、一番簡単なのは「子どもの課題だから、親はいっさい干渉しない」という方法です。私はそれでもいいと思います。
しかし、どうしてもなんとかしたいと思うのであれば、本来は子どもの課題であるけれど、親と子どもの「共同の課題」にするための手続きを踏んで、親が協力を申し出ることは可能です。
たとえば、こういう言い方ができます。「最近のあなたを見ているとあまり勉強されているようには見えませんが、そのことについて一度話し合いをさせていただきたいのですが、どうでしょうか」と。
それに対して子どもが「嫌だね」とか「ほっといてくれ」と言ったら、「あなたが思っているほど事態は楽観できるものではないけれど、いつでも力になれると思うから、そのときには話してください」と伝えて静観するのです。

分断の時代に誤解される「課題の分離」
古賀史健(以下、古賀):昨今では、分断が世界中で問題になっています。「分断」「分離」という言葉や考え方に基づいてなんらかの線を引き、「ここからそちらはあなたのエリア」「ここからこちらは私のエリア」と考える人もいると思います。
政治的な問題とか社会的な問題もそうですし、あるいは趣味でも今はものすごく細分化していて、小さなコミュニティで自分たちの居心地のいいところにいて、他との交流をなるべく避けようとする。
そうした小さなコミュニティの中に閉じていると、それはそれで居心地のいい場所だとは思います。けれど、交わることによって初めて得られる知見とか発見もたくさんあるはずです。けれど、交わることが恐ろしい世の中になっているとも思うんですよね。
SNS上でも、自分のタイムラインの中でずっと生きていると、自分に都合のいい情報ばかりが目に入ってくる。すると、自分の外側の人たちと意見や価値観を交換することがとてもやりにくくなってしまう。
課題の分離と、細分化されたコミュニティや価値観の落としどころをどうするか。それぞれが自分の共同体にいて、その共同体がたくさんある世の中がいいのか、あるいは、もうちょっと交流が盛んな世の中がいいのか。
岸見:私は交流の盛んな世の中のほうがいいと思います。非常に閉鎖的な共同体がたくさんあっても、それはある意味混乱の極みなので、やはり交流がないといけない。自分の考えとは違うけれど他者の考えにも耳を傾けようと思える人が増えない限り、分断が進むばかりです。
ただ、そこで課題の分離を正しく理解しておかなければ、すぐにケンカになるかもしれません。「これが私の考えだ」というのは私の課題です。そして「相手が何を考えているか」というのは相手の課題です。もし意見の交流を図るのであれば、「共同の課題」にする手続きを踏まなければいけません。
「これが私の考えなのですが、あなたはどう思いますか?」といった働きかけをすべきです。「私の考えが絶対に正しいのだから、あなたはそれを受け入れなさい」などと言われると、たとえその考え方が正しくても相手は反発するかもしれません。
賛成することと理解することはまったく別なのです。今の世の中になにが足りないかというと「理解する努力」だと思います。たとえば「あなたの考え方は理解できます。でも反対です」ということはあり得るのです。けれど、理解することと賛成することの区別があいまいになると、「理解することがそのまま賛成だ」とか「理解できなければ反対である」となってしまう。
違った考えの人たち、あるいは違った考えの共同体同士が交流するのであれば、まずは理解が必要です。その上で賛成するかしないか、あるいは「あるところは賛成だが、あるところは賛成できない」ということを明確にしていくべきです。
そういった話し合いをきちんとやることによって、より大きな共同体同士の交流が盛んになり、小さな共同体だけに留まるような現状を少しずつでも変えられるのではないかと思います。
「課題の分離」が最終ゴールではない
古賀:課題の分離を単純に「会社」の仕事に置き換えて、たとえば「上司が言っていることは上司の課題であって私の課題ではない。だから関係ありません」と考えてしまうことがあります。そうした理解の仕方が今けっこう広がっていると感じます。
これは会社としてもチームとしても絶対に良くないことです。「自分は自分で勝手にやるし、あの人はあの人で勝手にやる。向こうがなにを言おうとそれは自分の課題ではない」ということではチームになりません。
家族の場合は、たとえ「子どもが勉強しない」とか「親がうるさい」といったことがあっても、「我々はチームである」という共通理解があると思います。それに対して会社の場合はバラバラのまま進もうと思えば進むことができる。場合によっては関係を修復しなくても済んでしまう。つまり、家族と会社では前提条件が違うのです。
ところが課題の分離を説明すると、かなりの人たちが会社での話に置き換えて考えがちです。
課題の分離とは、ただ課題を分けるためのものではありません。その先の協力や共同の課題を見つけるためのものであり、もう一歩先の「共同体感覚」というゴールを目指して、まずは「どこがあなたの課題で、どこが私の課題で、じゃあ共同の課題はなんだろう」というプロセスを踏んでいこうとするものです。
会社の中やプロジェクトチーム単位で課題の分離を考えたとき、「バラバラのままでいいんだ」と勘違いしている意見をたくさん耳にしますが、そうではないことは著者としてしっかり言っておきたいと思います。
岸見:会社のなかで、たとえば部下が失敗したり、良い成績を上げられなかったりしたとき、上司が部下を責めることがあります。あるいは部下の努力や能力が足りないことを問題にする。
ですが、上司は教育者なのです。もし部下の成績が良くなかったり、失敗を繰り返したりするようであれば、それは「教育者としての上司の課題」だと考えたほうがいい。
失敗したからといってそれを部下の課題だと切り捨てたり、頭ごなしに叱りつけたりしても問題は解決しません。なぜ失敗したのか、なぜ成績が上がらないのか。まずは「私の教育が足りなかった」という自覚を上司は持たなければいけない。その上で上司と部下が「なぜ、こういう失敗が繰り返されるのか」について話し合いをすべきなのです。
そのとき上司と部下の関係が悪ければ、上司がそのように共同の課題にしようと思って部下に働きかけても、部下のほうは「それはあなたの課題ですよね」と切り分けて終わってしまう。
部下が「この上司の言うことなら耳を傾けてみよう」「けっして自分の失敗を一方的に責める上司ではない」という確信を持てれば、「実はすごく困っているんです」とか「ここがうまくできないんです」と話し合えるでしょう。そうすることで共同の課題にできるのです。
課題を切り分けるだけでは、問題が解決したように見えても実は解決からはほど遠く、いよいよ大変な事態になってしまうこともあります。
古賀:課題の分離をゴールのように考えている人が多いのですが、本当はスタート地点なんだと声を大にして言いたいですね。
岸見:ある意味、課題の分離が責任逃れになってしまっていることは多いですね。「私の問題ではない。あなたがやりなさい」と。実際にはそれでは済まないことが多いのです。ただ、他者の課題に土足で踏み込むようなことをすれば、相手も反発してしまうので、丁寧に話を持っていかないといけません。協力するために、まずは課題の分離をする。「これは私の課題、これはあなたの課題」と、もつれた糸をほぐしていくような作業をした上で、協力体制に入っていくことが大事なのです。
「課題の分離は最終目標ではない」ことをしっかり意識しないと間違えることが多いのです。そこはよく誤解される点だと思います。
(本記事は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の公式動画をもとに作成しました)





