第83回東京箱根往復大学駅伝・往路5区で石田和也・東海大を抜いた今井正人・順天堂大学(左) Photo:SANKEI
標高874メートルまで一気に駆け上がる箱根駅伝の5区は、かつて選手から「5区を走るくらいなら箱根は走りません」と拒まれた地獄の区間だった。「山の神」と呼ばれた今井正人(順天堂大学)や柏原竜二(東洋大学)ですら、ラストは顔を歪めて走るほどだった。実際に5区を走ってみてわかった、その想像以上の過酷さとは?※本稿は、作家の佐藤 俊『箱根5区』(徳間書店)の一部を抜粋・編集したものです。
世界に通用するランナーを
育てるために始まった箱根駅伝
なぜこんなに過酷なコースが生まれたのか。
箱根駅伝の前身は1917年(大正6年)に開催された、「東京奠都50年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」といわれている。
これは関東と関西の2チームが、京都三条大橋から東京・上野不忍池までの約516キロメートルを23区間に分けて3日間、走り継ぐという壮大な駅伝だった。
それを経て箱根駅伝が生まれたのは、金栗四三が1912年(明治45年)のストックホルム五輪でマラソンに出場した際、レース途中で日射病にかかり、棄権したことに端を発している。
世界に通用するランナーを育てたいと感じた金栗は、多くの選手を育成できる駅伝を走ることを考え、1919年、「アメリカ大陸横断駅伝」に参加しようとした。
コースは、サンフランシスコからロッキー山脈を越えてニューヨークのゴールを目指すものだ。そのための予選会としての駅伝が金栗らを中心に考えられ、最終的に東京と箱根を往復するコースが選択された。
最初はトレーニング効果を高めるために極寒期の2月に設定され、1920年にスタートした。早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、東京高等師範学校(現・筑波大学)の4チームによるレースだった。







