昔はレースそのものが過酷だった。

 箱根駅伝の創成期は午後1時のスタートだったので、箱根の山を走るころには日が落ち、街灯もないのでコースがわからなくなった。

 心配した地元の青年団が松明で照らすなか、選手は山を越えていった。そこには学生たちの必死の走りを応援したい、学生たちのがんばりが報われるように箱根駅伝を成功させたいという強い思いがあった。

 そして、それは現在の箱根駅伝をサポートしている人たちに受け継がれているマインドだろう。

あまりの急勾配を目にした
選手たちは山上りを拒否した

 1956年(昭和31年)に、現在の1月2日、3日の開催になり、1979年1月3日は東京12チャンネル(現・テレビ東京)でテレビ放送がスタートした。当時は、箱根の山の中継で技術的な問題があり、9区までは録画で、生中継は10区のみだった。

 その後、1987年の第67回大会から日本テレビが放送するようになり、5区というコースが初めて陽の目を見ることになった。走った選手にしかわからない5区の全容が明らかになったとき、急勾配の坂を上る苛酷なコースに多くの人が度肝を抜かれたという。

 大後栄治前監督(編集部注/神奈川大学を指導。箱根駅伝で総合優勝2回〔往路優勝3回、復路優勝1回〕の実績を残す。2024年の第100回大会を区切りに監督を勇退。箱根駅伝の生き字引といわれる)はこう振り返る。

「こんなにきつい坂を上り続けるのか、と見た人は、みんなそう思ったと思いますね。私も初めて見たときは、そう思いましたから」

 その坂のきつさ、厳しさは選手間に広がり、少し前まで5区を積極的に走ろうという選手は多くはなかったという。

「初代・山の神」こと今井正人(編集部注/順天堂大学時代、2005年の第81回箱根駅伝で5区を走り、史上最多の11人抜きを達成。第83回大会の5区では区間賞で往路優勝に導く)も高校のころ、5区で大東文化大学の奈良修の快走を見ていたが、「どちらかというと5区よりも2区で勝負したい気持ちが強く、それほど5区に対する気持ちが強かったわけではない」と思っていたという。

 順天堂大学に入学後、仲村明監督から、「5区を走るくらいなら箱根を走りませんと言ってきた選手もいた」という話を聞いたことがあった。

「僕は、そこまでイヤではなかったですし、だったら逆にそこで活躍してやろうと思っていました。でも、監督からその話を聞いたときは、5区はほとんどの人がイヤなんだなと思いましたね」