「人殺しの顔を見たくないのか」
人間の潜在的な欲求に向けたジャーナリズム
現在の写真週刊誌の礎を築いた立役者の一人として数えられる伝説の編集人・斎藤十一(1914-2000・新潮社)の「君たち、人殺しの顔を見たくはないのか」という発言は有名だが、人の持つ「道徳的には褒められないが潜在的に確実にある衝動・欲求」をそれとして認め、そこを見定めて展開するのもジャーナリズムであることを、雑誌(特に氏が創刊に深く関わったとされる「FOCUS」)の売れ行きから証明したのであった。
ちなみにだが、いまでこそ雑誌のスキャンダル記事といえば文春砲で、FOCUSはその直接のルーツではないものの、スキャンダル記事の人気や社会性を示し、「写真週刊誌はここまでやっていい」という限界値の押し上げに貢献してきた歴史がある。
「FOCUSがならしてきた土壌に今の文春がある」と、広い意味ではいえようか。
公共の報道は社会性・公益性がメインであり、そこにのぞき見根性が入る余地は建前上ない。加害者の写真や実名を報道する必要があるのかは反対の声もあり、都度都度、時代に合わせた議論が必要な争点ではある。
ただ、「社会性かのぞき見根性か」は相容れない2つに見えてわりと不可分で、混然一体となっているのが実情である。
たとえば私事だが何年か前、「シリアルキラー展」という、世界の連続殺人鬼たちを深掘りしたアングラな展覧会に行ったことがある。あれなんかはまさしく連続殺人犯への野次馬的興味と心理学の学術的探究心がないまぜになった好奇心が、会場に足を運ばせたものである。
長澤まさみの報道自粛要請と、モラルを欠いた取材に基づく暴露報道はなぜ同時に支持されうるのか。
まず、人には気持ちの表層に表れて自分でも意識できる欲求と、自覚しにくい無意識の領域近くにある欲求がある。マーケティングだと顕在ニーズ・潜在ニーズと分けて呼ばれるこれらの欲求は、互いに相反するものでも同時に成立しうる。
一人の人間に相反する欲求が共在できるということは、長澤まさみの報道自粛要請を支持する人と、モラルを欠いた取材を批判する人はきっかり分かれているわけではなく、実は一人の人間がその両方をやることが可能であることも示している。







