スキャンダルをのぞき見するハードルが低く
ネットが生み出す「脱個人化」
我が胸に手を置いて考えてみても、たしかにモラルを欠いた取材やそれに基づいて書かれた記事など道徳的には言語道断なのだが、それを経て書かれた記事はたしかに面白く思えてしまうのである。
私は自分を比較的高潔な人間だと(過大)評価しているが、我が性根にしっかりと根を張った俗物根性はたしかに、それもわりとしっかりある。
加えて、見ることのハードルの低さが人ののぞき見ムーブを後押しする。ネットでは(しばしば有料ではあるものの)ワンタップ・ワンクリックでスキャンダルを読むことが可能で、敷居は極めて低い。
店頭で雑誌を買うのはスマホのワンタップに比べて一段階ハードルがあるが、「文春砲」くらいブランドとして認知(つまりは親しみやすさ)があると「コンビニに寄ったついでに」くらいで買われることも多かろう。
ネット上で常に起きているのが、社会心理学でいう「脱個人化」という現象である。参加者が増えることで個人の責任の所在があいまいになっていく。炎上や過剰な叩きにはこの脱個人化が大いに関係している。
しかしこれはネットの構造上、仕方ない種類のものではある。何しろ参加者は基本匿名性、仮面性で脱個人化が後押しされている上、何か加害行為に参加しても「加害をしている」という実感が得られにくい。
ゴシップ記事を読むとき、それをタップするだけで実際はその記事を支援することになる。もっというなら「記事を支援している→その記事のもととなったゴシップ取材を支持している→ゴシップ取材に加担している」という構図も成立しているのだが、記事を読む(コンテンツを消費する)人にそこまで自覚的な加担の感覚は、因果の矢印が遠くなり過ぎて薄れているためかほぼない。
だが「取材」という行為そのものを見ればどうか。アポなしで突撃する、本人、関係者、周辺の人を巻き込んで唐突にカメラを向けマイクを突きつける、得られた情報や写真を問答無用で記事化し世間に頒布する……これらの行為は個人のプライバシーや尊厳をためらいなく踏みにじっているようで、この上なく暴力的に映る。







