こうした取材をビジネスとして成立させているのは、無数の「加担の自覚なきのぞき見」に他ならない。

 ……のだが、「のぞき見で記事を読むだけ」だとどうしても暴力的な感じがあまりしない。結果、「取材はダメだが記事を読むのはみんなしているしまあセーフ」といった分離が成立することになる。

加熱報道による被害を減らすには?
個人での限界がある中でできること

 とまれ、ゴシップ記事は面白いのである。人の秘密、転落、裏切りやあっと驚く真実などのドラマ性がゴシップ記事には盛り込まれている。よほど高潔な道徳的決意をもって排斥しない限り、その面白さを退けることはできずに読んでしまうはずである。

 「道徳的に奨励はできないがついゴシップ記事を読んでしまう」人間の性格的傾向を、現状のシステム、特にネットはブーストしている。参加する自覚を薄めてワンタップや雑誌購入でのぞき見ができる巨大なシステムを前に、人が自らの意志だけを足がかりにあらがうのはなかなか難しい。

 ゴシップ記事が「よくないのでは」といった理性より先に、「面白いものが好き」という感情に働きかけて閲覧を促しているのだと仮定する。

 その感情が拡散しやすい構造が現代社会にあるとするならば(SNSの拡散アルゴリズムは特に感情に強く反応する)、感情を制限するのではなく感情が先走りしにくいシステムを整備するのが有効である。

 たとえばSNSでの投稿前に「本当に投稿する?」という問いかけのワンクッションを置くだけで実際に拡散率は下がる。感情のピークは短命で長く続かない性質があるので、それを利用したアプローチである……とまあ、これは当記事の趣旨とはやや違ったまた別の話である。

 過熱する取材や報道による被害を減らすには、個々人がモラルを高く持つことはもちろん大事だが限界もある。長澤まさみ所属事務所の声明に共感するのはいい知見になるし、リテラシー教育の観点からもよろしかろう。

 そのうえで、その共感を個別に終わらせて「他人(長澤まさみ以外)のスキャンダルは別腹」になってしまいがちな人間の性質について自覚的でいることが肝要である。なぜなら、集団につられて我を忘れて過熱するのではなく、その集団の中にあって自分を観察し保持できる人が、集団の温度を下げるブレーキ役となれるからである。