Aちゃんと出会って私は難聴というものを初めて「客観的に」知ることができた。視線を合わせてから話し始めること。視覚的ヒントを示しながら話すとスムーズなこと。Aちゃんともっと深い話がしたくて、一緒に手話講習会に通った。身体障害者手帳を申請したのもこの頃だった。やっと「難聴の自分でもいいじゃないか」と思うことができた。

 しかし、将来像が全く描けないまま大学生になっていた。友だちとの会話もままならないのに、社会に出て仕事ができるとはとても思えなかった。やがて難聴協会に入会し、大人の難聴者との交流が始まった。いろいろな仕事につき、家庭を持ち、子育てをしている会員たち。自分にもそんな未来があるのかもしれないと、ぼんやりとした未来が見えてきた。

リサーチ不足のまま
社会人生活がスタート

 Aちゃんとの出会いで難聴学級というものを知った。私は、地元の大学の教育学部に在籍していたが、難聴学級の担任だけをずっと続けることは難しいようだった。「通常学級の担任が自分に務まるだろうか」と4年生になっても迷いがあった。ちょうどその年、県職員の身体障害者枠の採用試験が始まった。

「事務なら難聴の自分にもできるのではないか」と思い受けてみた。初年度の採用は4名、他の3人は肢体不自由で、聴覚障害者は私だけだった。発音に全く問題のない私は、端から見ると障害が軽いと見えたことであろう。

 あまりにリサーチ不足のまま社会人をスタートしてしまったため、すぐに壁にぶつかった。最初は先輩の手伝いから始まるのだろうと思っていたが、4月当初から自分の担当業務がありまず驚いた。

 自分の業務に関する情報は、自分で獲得していかなければならない。入庁してほどなく、担当業務に関する会議に課を代表して参加するように言われた時には「会議では聞き取れないのにな」と思ったものの、上司に相談することなくひとりで出席してしまい「案の定」役目を果たすことができなかった。採用試験の際、聞き取れない場面は概ね伝えていたため、上司は知ったうえで参加させるのだと思った。