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高度経済成長の只中、大学には大企業の求人が殺到していた。だが、難聴の学生にはその波が届かない。「推薦は無理だ」、就職活動で突きつけられた、努力では覆せない壁。それでもなお、自活の道を諦めず、働く場所を求めてもがき続けた著者が、見いだした人生の光とは。※本稿は、全難聴理事長の宿谷辰夫編、全難聴副理事長兼事務局長の宇田川芳江編『難聴を生きる 音から隔てられて』(岩波書店)のうち、当事者の内悧氏による執筆パートを編集したものです。
生まれて初めて直面した
「就職」という一大難関
私は1944年に東京・小山台に生まれた。出生直後、熱病に罹り難聴となった。戦時中で防災訓練や防空壕堀りが繰り返される毎日。私が熱病に罹っても十分な治療は受けられず、耳の障害はそのまま残った。翌45年3月にはB29によって、東京の下町は焼き尽くされた。
戦局の悪化で国民学校の訓導だった父に疎開命令が出され、一家は7月に父母の郷里の広島に疎開した。爆心地から7キロ離れた村で原爆の直撃は免れたが、その直後に降った黒い雨の被害に遭った。その後遺症なのか年中倦怠感がし、75歳で甲状腺がんを発症してからは大学病院への通院を重ねている。
聞こえの障害はあったものの、両親と姉、兄も教員だったので、高校までは家族のサポートを得て順調に学業を終えることができた。大学は地元の国立大学にストレートで合格した。専攻は経済学だった。聴力が相当に悪化していたため、教授の言うことは全く聞き取れず、大学では学ぶのにちょっと苦労した。
今の難聴学生が享受しているノートテイク(編集部注/主に聴覚に障害のある学生が授業内容を理解できるよう、授業中の先生の話や教室の状況をリアルタイムで文字に書き起こし、伝える情報保障活動)など全く存在せず、友人のノートを拝借し、あるいは大学図書館に籠って専門書を読みこなすことで、所定の単位をなんとか修得した。卒業論文は「旧ソ連の利潤問題について」で合格の判定を頂いた。







