奇跡的な回復だと医者に言われても、親父は左半身の麻痺が残り、文字の形を思い出す能力を失った。余生は大好きな絵を思い切り描いて過ごそうと思っていた親父にとって、利き手の左手が動かなくなってしまったことは、何よりの苦痛だったと思う。そして、作家として文字の形が思い浮かばないということは大きな恐怖だったに違いない。それでも親父は、親父らしく振る舞い続けた。
一番心地の良い体制で
父を介護すると決意
実家で一人暮らしの親父の日課は、家の近所を歩くこと。左半身が麻痺していると、空間認識がおぼつかず足を上げられない。ヨチヨチとした、いわゆるペンギン歩きになってしまう。それでもその昔、逗子の海岸で子供の僕を置いてきぼりにして走っていた時と同じく、目線だけはキッと前を睨み黙々と歩き続けていた。
そんなある日、親父は転んだ。近所の方が知らせてくれて迎えに行った家政婦さんが体を引き起こそうとしたが、大きな親父を起こすことは容易ではなかったという。散歩だけではなく食事、掃除、入浴などなど日々の暮らしの中で様々な小さなトラブルが起こるようになっていった。
お手伝いさん、家政婦さん、秘書の方、お医者さん、看護師さん、介護士さんに全てを任せておくわけにはいかなくなった。コロナ禍のこと、時間に余裕のあった僕は、皆を束ねる実家の事務長役を買って出ることにした。
「これはシステムの維持のためです。親父にも色々と不満はあるだろうけれど、どこか他で暮らすよりも、ここで人を入れ換えて暮らすよりも、この家で今のメンバーで過ごすのが一番居心地が良いと思う。このシステムを維持するために、僕は親に向かって言いたくないような事でも、はっきりと物申します」
事務長に就任するに当たり、僕は親父に面と向かって宣言した。親父はといえば、僕の話を聞いているのかいないのか。なにしろ、居間のソファーの定位置に座った親父は、昔懐かしい外国映画をボリューム45で見つめている。テレビのフルボリュームよりも大きな声でしゃべると、いくらつかこうへい氏の舞台で鍛えた僕の声でも10分も経てばヘタってしまう。親父は僕が少し弱ったのを見透かすと、「うるせえな、分かったよ」と大きな怒鳴り声で話を終わらせた。
そんな親父の様子を施設にいる母親に報告すると、いつものことだと苦笑する。そして「お父さまも、達観してくれればいいのにね」とポツリと言った。







