父の介護で気付いた
兄弟や家族の心強さ
そう、“達観”なのだ。もう30年以上前の話になる。ハワイで最後の療養生活を送っていた裕次郎叔父を見舞った僕は、家に戻りハワイの様子を親父に報告した。叔父は一日中、青い空、青い海、輝く太陽の南国の景色を薄暗いリビングルームから、身じろぎひとつせずジッと見つめていた。その話を聞いた親父は、「裕次郎は強えなあ。俺はあいつみたいに達観できない」と呟いた。
多くの人々に夢を託され、その夢と共に生きた裕次郎叔父の最期。決して達観することなく、己の感性の赴くままに生きた親父の最期。比較しようもない2つの最期の姿を、間近で見続けたことは僕にとって大きな財産となった。
親の介護では、兄弟4人がそれぞれの役回りを担っていたと思う。親父と一番付き合いの長い伸晃兄は親父の話し相手になり、銀行員の習性で数字に細かい宏高が経理を担当し、近くに住む延啓は芸術論を交わす傍ら次々と細かな用事を言いつけられていた。
思えば兄弟が多くて良かったなと思ったのは、この時が初めてだったかもしれない。兄弟が多いとケーキだってメロンだって小さくなる。兄弟が少なければお年玉の額は多くなり誕生日プレゼントも大きくなる。兄弟は少ない方が得だという思いが僕にはずっとあった。兄弟の存在の心強さを親の介護で初めて知った。
そして何より、自分の家族の存在が助けになった。皮膚科医である妻は時には嫁として、時には医者として介護の様々な面で協力してくれた。特に感性の赴くまま配慮のかけらもない患者と病院のお医者さんとの間に立ち、家族として医師として両者を上手く取り持ってくれた。親父もそんな妻のことは信頼していたようで、親父からの電話に僕が出ると「お前じゃない、幸子さんを出せ」と邪険に扱われた。
僕が親父とやり合って怒って帰って来たり、電話口で大声を上げた後は妻と2人して親父の話を酒の肴にして盛り上がった。僕は頼りになる戦友と共に声を上げて笑って、また翌日も続く闘いのために英気を養った。







