――現地にはまったくあてはなかったんですか?

栗栖 あてなんかないよ。でも、俺が大学時代に通ってたボディビルセンターのチャンピオンがロスでサウナかなんかを経営してて、一応面識があったから、その人を頼って行ったんだけど。

――プロレス界とつながりのある方だったんですか?

栗栖 ない。でも、日本人街みたいなところで下宿先を紹介してもらえたから、ごっちゃん(感謝の意)はごっちゃんだったね。それでロスの日本食レストランで皿洗いして働きながらボディビルやボクシングジムに行ってね。

――働きながら体を鍛えてチャンスを待っていたと。

栗栖 俺が働いてたレストランの2軒隣の店が、ロスに来た日本人レスラーの溜まり場みたいになってたところでね。そこのオーナーが、昔から猪木さんをかわいがってたんだよ。で、ある日、猪木さんがロスに来た時、そのオーナーは、俺がレスラーを目指してるの知ってたから、「栗栖、今度猪木さんが新しい団体をつくるから、そこで世話になれ」って言ってさ。猪木さんにも「こいつを連れていってやってくれ」って言ってくれて、それで日本に帰ることになったんだよね。そこからは、ヤクザの親分・子分の関係と一緒よ。

運転手兼ボディガードの気持ちで
猪木の送り迎えを担当

 栗栖はデビューから間もなくして猪木の運転手となり、主に関東での試合や、シリーズオフの猪木が東京にいる間は、他の選手と同様に道場で練習をしながら、様々な場所への猪木の送り迎えを担当した。

――栗栖さんが猪木さんの運転手をやってた時は、「運転手兼ボディガードだ」という気持ちもありましたか?

栗栖 そりゃそうでしょ。それは当然。やって当たり前だし、「猪木さんのためだったら」ってなるもん。俺としてはやり通せてよかったっていう感覚だよ。だって猪木さんはそれだけの価値がある人だったから。

――体を張るくらいの価値があったと。

栗栖 だからべつに悔いも残らないし、俺は猪木さんのために「よっしゃ、一生懸命にやったろ!」っていう頭があったから。その気持ちは今もありますよ。残念ながら、もう猪木さんはいないけどね。

――でも、あの70年代の新日本道場で新人選手としてトレーニングしながら、猪木さんが何か用があればすぐにクルマで駆けつけて運転手をするって、相当ハードだったんじゃないですか?