2022年10月に亡くなった不世出のプロレスラー、アントニオ猪木。彼が引退後もメディアの前で「1、2、3、ダァー!」「元気ですかあ?」と叫び続けた背景には、あるプロレスラーの影響があった。『週刊プロレス』元編集長のターザン山本氏がその理由を明かす。※本稿は『アントニオ猪木とは何だったのか』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです。

アントニオ猪木が
マスコミ好きになった理由

アントニオ猪木Photo:Ogiyoshisan

 猪木家が移住したブラジル(注:猪木が14歳のとき)と日本は気の遠くなるような距離だ。そのことで猪木は巨大なコンパスを手に入れた。世界を認識し続ける尺度のことである。その後、猪木はブーメランのように日本の地を再び踏むことになる。

 日本には船ではなく飛行機で帰国。羽田空港に着陸して機内から外に出たとき、猪木が見たのは力道山を出迎えていた山のようなカメラマンだった。新聞記者だった。そのことで猪木はマスコミ、メディアの存在を知ることになる。猪木が力道山から学んだ最大のことがこれだ。

 戦後の日本社会で娯楽、エンタメの王様になったのはテレビだった。そのテレビのコンテンツの1つとしてプロレスは絶大な地位を築いていた。すべては力道山のメディア戦略によってである。

 吸血鬼フレッド・ブラッシー、魔王ザ・デストロイヤーの売り出し方はアイデア、センスとも超一流。その点でも力道山は不世出のレスラーだ。ブラッシーの流血マッチではショック死事件を起こしている。あるいは密林男グレート・アントニオにはバスを引かせるというパフォーマンスをやらせた。

 面白いことに猪木はマスコミ好きになっていった。メディアから注目されたい願望。それは猪木の生きがいになっていく。ほとんどメディア中毒症だ。

 ところで力道山は1963(昭和38)年、あっけなく亡くなってしまう。猪木、20歳だった。祖父と力道山。この2人の死によって猪木は虚無と永遠というテーマから逃げられなくなった。死という座標軸とその真逆にある生の座標軸。もちろん生きている限り思い切り生の座標軸を駆けめぐるしかない。

 猪木はレスラーを引退したあと「1、2、3、ダァー!」と「元気ですかあ?」のパフォーマンスをやり続けたが、あれは「生きていますか?」なのだ。「元気があればなんでもできる」も「生きていればなんでもできる」である。

「道」という詩に対する猪木の強い思い入れ。どこでもそれをそらんじることができた。「迷わず行けよ。行けばわかるさ」も道の先には確実に死がある。死があるから迷ったり悩んだりしているヒマはない。猪木はそれが言いたかったのだ。おそらく自分自身に対してもだ。

23歳で無謀にも
「東京プロレス」を旗揚げ

 力道山の死後、日本プロレスは馬場をエース、スターにして再び繁栄を築いていった。猪木は馬場の2番手。馬場の黄金時代だから仕方がない。主役ではなかったことで猪木は醒めた目でその現実を見ることができた。