このような遺体安置所の条件として、まずは多くの遺体を安置できること(それなりの広さ、外から見えない構造、駐車場も必要)、適切に検視・検案できる環境があること(遺体を洗浄する水、遺体を観察するための適切な明るさ、つまりは電源も必要)などが挙げられます。
そして、身元確認を進めて家族のもとに返さないといけませんので、家族の待機場所や遺体と対面する空間が必要であり、しばらくの間、遺体を保存する場所や方法も検討しなければなりません。業務に従事する者の待機場所も必要です。
当時を振り返る記事によれば、この時の遺体は港区芝の増上寺に搬送され、検視などを行なったようです。
ホテルニュージャパン火災の
経験が活かされた羽田沖日航機墜落事故
警視庁管内では、このホテルニュージャパン火災の翌日(1982年2月9日)、羽田沖日航機墜落事故(日本航空350便墜落事故)が発生しています。この事故も、乗客乗員174人中24人死亡という大惨事となりました。
遺体を安置するための棺も、鑑識の写真撮影に使うフィルムも足らず、捜査員の弁当の手配にも苦労したようです。もちろん捜査も大変ですが、検視官も大変だっただろうと思います。
『検視官の現場-遺体が語る多死社会・日本のリアル』(山形真紀、中央公論新社)
羽田沖日航機墜落事故の遺体の搬送先について、当時の警視庁鑑識課長は、「空港警察署では、近くのお寺の境内を確保したということでしたが、そんな狭い場所ではダメだ、格納庫を提供してもらえという注文を出したんです。検視が終わった遺体を安置する場所も必要で、これは日航の会議室を使わせてもらうことになった。皮肉なことに、前日のホテル・ニュージャパンにおける遺体検視の経験が活かされたのです」と回想しています(上條昌史「シリーズ「昭和」の謎に挑む(4) ホテル・ニュージャパン火災と羽田沖日航機墜落 警視庁が呪われた48時間」)。
1985年の日本航空123便墜落事故(死者520人)では群馬県の藤岡市民体育館(当時)などを、2005年のJR福知山線列車事故(死者107人)では尼崎市記念公園総合体育館(現ベイコム総合体育館)を遺体安置所にしたとの記録も残っています。
多人数が亡くなる事件・事故では、多数遺体の検視が必要となり、遺体安置所の設置や関係機関との連携が重要になるのです。







