時に、その方の生い立ちや事件の経過なども聞く。僕とは全く違う人生を歩んでこられたことがわかる。その違いが「受刑者」と「引受人」となって表れているようにも思える。
面会の帰り道、僕は考える。「あの人」と「僕」。アクリル板の「向こう側」と「こっち側」。全く違うように見えるが、本当にそうだろうか。確かに生きてきた経緯は違う。
しかし、それは僕が「たまたま」恵まれていたに過ぎないのではないか。1つ、2つ条件が欠けていたら僕自身、アクリル板の「向こう側」に座っていたかもしれない。たまたま。つくづくそう思う。
僕は関西の生まれで、今も関西弁が抜けない。関西人は自分のことを「自分」と言うが、相手のことも「自分」と言う。
「自分、こないだ来るって言うとったやん」は、「あなたは、先日、参加するとおっしゃっていたのではないでしょうか」という意味になる。
「自分はそんなことせーへんけど、自分らも絶対そんなことしたらあかんで」は、「私は、そのようなことはいたしませんが、皆さんも絶対にそのようなことをしてはなりませんよ」ということ。
「私という自分」と「あなたという自分」が同じ「自分」で表される。これはとても面白く意義深い。関西弁の「自分と自分」の関係から考えると「アクリル板の向こう側の人」もまた「自分」と呼ぶことになる。少々、ややこしい話になったが、この感覚は大事だと思う。
自分との共通点を見出せれば
少しだけ親身になれる
『わたしがいる あなたがいる なんとかなる「希望のまち」のつくりかた』(奥田知志、西日本新聞社)
出会った人の中に「自分」を見い出す。どんなにあの人と自分は違う、と言ってみても「その人」の中に「僕」がいる。「とんでもない人」と思っているその人も「自分」だと理解できれば人は少しだけ「親身」になれる。
確かに個々人が背負ってきたものは違う。悲しみも、苦しみも、切なさも、すべて違う。だから、軽々に「自分と同じ」などと言ってはいけない。
しかし「赤の他人」と簡単に片づけてしまえるものでもないと思う。「自分と違うから関係ない」と言ってしまえば楽かもしれない。
だけどそれを言い切らない。できるだけ「この自分とあの自分」の共通点を探したいと思う。その共通点……。それは「弱さ」だと思う。同じような「弱さ」を抱える「自分と自分」が出会っている。そんな思いで人と出会えると少し世の中が温かくなると思う。







