同類であるというのは、自分もまた過ちを犯し得る存在であるという意味である。そのように見て、過ちを犯した人に寛容でなければならないとアウレリウスは考える。

「過ちを犯す者をも愛することは、人間に固有のことだ。それは次のことをお前が思えた時にできるようになる。すなわち、彼らがお前と同類であり、無知のため心ならずも過ちを犯すということ、彼らもお前も束の間のうちに死んでしまうであろうこと、とりわけ、お前に害を加えはしなかった。なぜなら、お前の指導的部分(理性)を以前より悪くはしなかったから、ということを」(前掲書、7・22)

 自分も他者も「善悪」について無知なのである。その「同類」の者同士が対立しないで、協力して生きていくのが「自然」なのである。

「人間は互いのために生まれた。だから、教えよ。さもなくば耐えよ」(前掲書、8・59)

「さもなくば耐えよ」というのは、ただ怒らずに耐えよ、我慢せよという意味ではなく、過ちを犯したのは故意にではないので、まず過ちを教えなければならない、しかし、それができないのなら、怒らないで耐えよという意味である。自分も同じ立場に置かれたら過ちを犯し得るということを知っていれば、他者に対して寛容になることができる。

怒りに身を任せるより
言葉で説明するほうが合理的

 感情には目的がある。その目的は、自分の要求を押しつけ、自分がしたいことを相手にさせることである。

 感情的になる人はついカッとしたというだろうが、たとえ相手がいうことを聞いてくれたとしても、そのようなことが繰り返されると、いずれ関係は悪くなる。

 感情の目的を知れば、他の行動を選ぶことができる。怒りが自分のいうことを聞かせるために作り出される感情であることがわかれば、言葉で自分の考えを説明することが有用であることがわかる。相手の要求を断る時も、言葉でしたくないといえばいい。

 また、相手から感情的な対応をされ不快な思いをした時には、黙っていないで、例えば「今のあなたの言い方で腹が立った」とか「傷ついた」といわなければならない。

 ただし、それを伝えるために怒る必要はない。