ただその一方、飲酒文化の長い歴史をふまえると、「酒を飲むこと」が「仕事のうち」に含められるのは、すぐれて新しい事象としても、理解される必要がある。それは20世紀になり、経済や政治、テクノロジーのありようや、人びとの働き方が大きく変わったことで、はじめて社会全体にひろまった近代的な現象なのだ。

 いいかえると、この時代の日本社会では、「酒を飲むこと」が、自然と「仕事」的な性格をおびてしまうような仕組みが、諸々の大きな変化にしたがい準備されていた。職場の酒宴文化が衰退しつつある今日の日本社会にしても、実のところ、この仕組みと決して無縁でない。

産業社会における労働にとって
アルコールは邪魔にしかならない

 アルコール飲料は本来、労働には不向きな飲みものである。とりわけ産業社会における労働にとって、アルコールの麻痺剤的な作用はおよそ邪魔にしかならない。合理的な思考や正確な動作を要請する近代的労働に対して、アルコールが阻害的に働くことは、専門家集団が繰り返し説いてきた事柄に属している。1942年、国内労働科学の著名な専門家であった暉峻義等(てるおかぎとう)は、勤労者向けの科学啓蒙書のなかで、次のように述べている。

 今日の工業的技術は著しく変化し、筋力を必要とすることが益々減少するに反し、精神力、即ち注意力の緊張と仕事の巧みさ正確さを必要とする仕事の性質が増加している。飲酒によるアルコホールの影響は、かかる作業の性質に合致しない。即ちアルコホールは注意力の集中を悪くし、仕事の正確を減少し、疲労せる心身に対して見かけだけの、一時的の疲労感を退散させるもので、仕事の健全性は著しく減ずるから、危険と失策とが増大するのである。
(暉峻義等「労働生理」)

 産業社会とは、社会全体にめぐらされた無数の機械設備を用いながら、社会総体が機械的協働・分業を行うことで、生産の拡大を続ける社会である。そのため産業社会は、「機械」(個人・集団間の機械的な分業を含めた、広い意味での「機械」)の正確さや勤勉さ、効率性に相即した心身の持ち主となることを、勤労者たちに一律的に要請する。暉峻が述べるように、このような産業主義的な心身に対して、アルコールは、ことごとく邪魔な仕方で働きかけてくるのである。