しかも、産業社会にあって飲酒という営みは、概ね労働の場の外部におかれている。近代社会では、酒を飲むことと、仕事に従事することは、空間的にも時間的にも、厳密に切り分けられている。従業員たちが勤務中、事業所で「公然」と酒を飲むというのは、少数の業種(サービス業の接客的飲酒や、酒造業の試飲など)に限られた、稀少な光景となっている。
明日の労働への活力を得るために
飲酒していた都市勤労者たち
こうした諸点からすると、飲酒と労働は、どこまでも対照的な営みのように一見思われる。事実、19世紀以前の日本社会にあって、飲酒という営為を価値づけていたのは何よりも、その反労働的な性格であった。近世までの人びとにとって酒を飲むことは、アルコールの力を借りて、日常の労働世界から一時的に離脱する、貴重な方途に他ならなかった。
もとより産業社会の飲酒慣行にも、こうした労働離脱的な性格は、部分的には残っている。だが、総体的に見るならば、工業化時代の人びとの飲酒スタイルを特徴づけてきたのは、「労働従属的」とでも呼ぶべき性格だ。たとえば明日の労働への活力を得ることを目的として飲む、翌日の始業時間をたえず気にしながら飲む、労働時と同様の職業精神(理性と禁欲の精神)を保持したまま飲む。
こうした労働従属的な飲酒スタイルは、歴史的には、産業革命期のイギリスを起点として、世界中にひろまった。日本の場合だと、20世紀前半の都市社会で普及をはじめ、世紀半ばから後半期にかけて、都市勤労者の間で主流化した飲み方に属している。
愉悦のための飲酒が
仕事のための飲酒へ
土曜の夜に盛り場に繰り出し「へべれけ」になる月給取り文化の成立は、月曜日からの機械的な労働の日々を、禁欲的に過ごしたことの裏返しであった。そうして翌日の日曜も遅寝して楽しく過ごした給料生活者たちは、月曜日からの単調な仕事に再び禁欲的に励むことになる。この点で、勤労者たちの土曜日の泥酔慣行は、けっして反生産的な営為などではない。むしろ労働日の勤勉さを担保する生産的な営みなのだった。
それは文化史家のシヴェルブシュが、「「愉悦」のなかの「仕事」」と呼んだ事柄に属している。シヴェルブシュは嗜好品の歴史を労働史的にたどった『楽園・味覚・理性』のなかで、こう指摘する。
本来「愉悦」に属するはずの飲酒行為が、「仕事」的な性格を色濃くする。このような現象は、20世紀日本の都市社会でも、(「土曜の晩」の飲酒に限らず)さまざまな形で生じていた。
たとえば昼間から酒を飲むことに、後ろめたさを強く感じること。終電の時刻が近づくと、どれだけ酩酊していても、酒席を切り上げ最寄り駅へと急ぐこと。飲みすぎ記憶をなくした際、深い自己嫌悪におそわれること。泥酔し理性を失いつつあるさなか、それを他人に見抜かれ指摘されるのを、極度にきらうこと。今日にも見える一連の飲み方や酔い方は、都市勤労者たちの飲酒実践が、その本来の反生産的性格を失い、労働的な営みへと再編されるなかで誕生したものだった。
『「酔っぱらい」たちの日本近代 酒とアルコールの社会史』(右田裕規、KADOKAWA)







