少なくとも、民間の諍いにまつわる当時の記録類(済口証文や詫び証文とよばれる記録)で、酔いを原因とした職人の過誤が問題化した例は、あまり目立たない。1860年、上野国・山田郡台之郷で「床屋」を営む男性が、「酒狂之上」、顧客の「右眉毛」を剃り落したという出来事が、比較的興味深い例として、『太田市史』に確認できる程度である。

 もっとも、この小さな事件にしても、大ごとになったわけではない。酔いが醒めた後だろう、当の「床屋」は、自らの所為に驚き「十方」(途方)に暮れ、「自分〔の〕右眉毛」も剃り落して謝罪すると、男性客も快く許したと、記録には書かれてある。

 そもそも、かれら職人たちに昼酒を提供していたのは、依頼主の側だった。今日でも部分的に名残が見られるように、職人に作業を依頼した際、かれらに酒類を供するのは、施主(もしくは施主の親族)の義務に属していた。

「普請などで大工や細工人を雇う際、酒を出す習慣は今後は無用である」(1698年、対馬藩の「酒御制法」)、「諸職人を雇った節に、酒を用いてはならない」(1829年(推定)、武蔵国・葛飾郡大島村郷約)、というように、藩の禁酒令や村の倹約申し合わせなどにおいて、職人や日雇い労働者への酒類提供を禁止する事項が、しばしば含まれていたゆえんである(『鳥栖市史』、『近世地方経済史料』第7巻)。

 普請振舞や大工振舞などと呼ばれたこの伝統的慣習は、共同体の外部者である職人たちを村内に招き入れ、作業を依頼する上での、重要な儀式として営まれていた。それは、「今まで他人であったよその舟大工と、一度は飲食を共にして置かぬと、安心してその作った舟を利用することが出来ぬ」という考えからする饗応儀礼であったと、柳田国男は指摘する(「北小浦民俗誌」)。

 つまり施主の側にしても、共同飲酒を通じて職人たちを村の一員として包摂し、「安心」を得ることのほうが、作業の正確性よりずっと重要なのだった。