人生のシナリオ設定

 いろいろな人と雑談を交わしてきたことで気がついたクセの例がもうひとつある。

 過去の出来事の話をするときに、「誰かにされたこと」をベースに話す人がいる。
「自分が何をしてどう感じたか」ではなく、「人に何をされたか」をもって自分のことを話すのだ。

 気になって聞いてみると、たしかに自分の人生は「誰かにされたこと(してもらったこと)と、その反応」でできているという感覚があると言う。

 もっと聞けば、幼い頃に身近な人からされたことや環境が発端で、誰かにされたことによって自分の行動が制限された事実があるのだと言う。

 そのインパクトが強かったため、そのまま見え方や考え方が定着したのかもしれないと想像できる。

 そして、その見え方だと、他者を見るときにも「この人は自分に何をしてくるか(何をしてくれるか)」を考えて、警戒してしまうのも当然だろう。

 先日、とあるトークイベントを開催した際に、参加者の方に事前に簡単なワークをやってもらった。
 その中のひとつに、「自分にとって他人とは○○である」と記入する欄があった。

 みなさんの回答を見せてもらうと、「他人とは自分をジャッジしてくるもの」や「他人とは自分を傷つける可能性があるもの」などの回答が少なくない数あった。

 そのワークでは、それらを「自分が設定したもの」として見ることからはじめた。
 いつかの経験からそう思うようになってしまったことは不運だし、仕方がない。

 しかし、その設定を固定してしまっていいのか? 本当に自分が望んでいる物語か? と問いかけ、設定をし直すという目的のワークだった。

 自分で設定したものは、思ったよりも力がつよい。
「設定というか、自分にとって紛れもない事実なんですけど」と言う人もいるだろう。それくらい、自分にとっての「当たり前」を疑って変えるのは難しいことかもしれない。

設定は何度でも変えられる

 たとえば、「他人は自分を傷つけるものだ」と設定している場合と、そうではない場合で起こることはどうちがうか。

 まず、何らかのイヤな出来事があったとき、「傷つけられた」とするか、「傷ついた」とするかがちがってくる。

「他人に傷つけられた」とする場合、その先に考えるのは「あの人はなぜあんなことを言ったのか」など自分が傷つけられる原因についてであり、そこから想像を重ね、「だからわたしはいつも傷つけられる」と着地してしまうだろう。

「わたしが傷ついた」とする場合、その先で考えるのは「わたしは何が嫌だったのか」であり、探すのは傷つく要因である。その中に他者が出てこないわけではないが、結果的にわかるのは「わたしはこうされると傷つく」だ。

 後者のような考え方をすれば、今後その要因を避けることもできるし、嫌だったら離れることができる。

 しかし、前者は、今後似たようなことが起きそうなときに、「ほらやっぱり傷つけられる」と自分の設定をより強固なものにしてしまうのだ。

 事実がどうかにかかわらず、自分の設定が正しいと証明するかのように、固定した設定に沿って進んでしまうことがある。

 同じ出来事でも、自らの設定によって捉え方は大きく変わるのだ。

 かつての経験から偏った考え方になってしまうことは、ある。大いにある。
 それについて「そんなふうに考えるなんておかしいよ」とは思わない。そこに至るには十分な理由があり、他の人が同じ経験をしてもきっと同じように考えてしまうだろうとも思う。

 しかし、だからと言って、初期の設定のまま一生進まないといけないとは思わない。
他者に植え付けられたその考え方は、自分で望んだものではない。どんな人も、自分で望み、自分で選び、自分で決めることを諦めてはいけないと思う。

 何度でも、自分の望みに沿って設定をし直すことができると言いたい。

望んでもいいのだと許可する

 過去の経験の力はつよく、足を引っ張る。それを振りほどくには労力がいる。勇気もいるし根気もいるだろう。

 しかし、そうしたネガティブな経験を自分から引き剥がすことこそが頑張るべき部分だとわたしは思う。
 イヤな出来事にいつまでも囚われるよりも、努力して自分の望みを大事にするべきだ。

 先述のワークの続きでは、現在の自分に足りないと感じるものや欲しいものを書き出し、そこから改めてこうありたいと望む設定を書いてもらった。

 すると、「他人とはわかりあえないけど敵ではない」や「他人とはちょうどよい距離で関わる」など、様々な変化が見られた。他人を警戒し怖いものだと感じている人も、誰もが本当にひとりきりの世界を望んでいるわけではないのがわかった。

「望んでもどうせ叶わないから」と諦めるのではなく、できるかどうかにかかわらず、まず、望むのが先だ。

 望んでもいいのだと自分自身で許可するのが先だ。
 諦めや失望から作られた設定を、望みから始まる設
定に書き換えるべきだ。

 そのためには、自分の欲や望みをよく知らないといけない。欲や感情の泉が湧くのを塞ぐもののひとつは、自ら作った設定なのだ。

 雑談をして、考え方のクセやカメラの位置を知る。今までの自分の設定を見つけ、見直して作り変える。その作業はとても大事だ。

「これが自分自身だ」と思っている大きな塊を、柔らかくして「そういうクセがあるんだね」とか「今はそういう状態になっている時期なんだね」などと、整理していく。

「わたしってこうだから」と思い込んでいるものを「ほんとうにそうかな?」と疑い、もう少し解像度を上げて分解して見てみようよと提案する。

 それは、自分ひとりではなかなかむずかしいので、他人の力を借りたほうがいい。

 そのためには、占いのように他人の口から自分のことを教えてもらうのではなく、自分の口から出たものを他人と一緒に眺める「雑談」が最適だ。