大人気noteを書籍化した『世界は夢組と叶え組でできている』で共感を呼んだ桜林直子さん。最新作『あなたはなぜ雑談が苦手なのか』(新潮社)では、独自の視点から「雑談」を紐解き人気を集めています。同書の中から厳選した内容を、抜粋・一部編集して紹介します。
「つまり何が言いたいの?」と話をまとめられたり、求めていないアドバイスを返されたりしたとき、人は「ちゃんと聞いてもらえていない」と感じます。こうした“聞けていない状況”はどうして起こるのでしょうか?

あなたはなぜ雑談が苦手なのかPhoto: Adobe Stock

「聞く」はとてもむずかしい

「人の話を聞くことができていますか?」と問われて、「できている」と自信をもって答えられる人はどのくらいいるだろうか。
 わたしは「話を聞く」ということは簡単なことではないと思っている。

 誰かと雑談をするときは「話す」と「聞く」を繰り返している。
 その際、自分が話せたかどうかは自覚しやすいが、聞くことができているかどうかはいまいちわかりにくい。

 人の話に意識を向ければ耳には入ってくるので、「聞く」は簡単なことだと思われがちだが、耳に入っていれば「聞くことができている」とは限らない。
 会話をする際の「聞く」について言えば、耳に入っているだけでは「できている」とは言えないだろう。

 しかし、自分が人の話を聞くとき、少なくとも聞いているつもりでいる。
「わざと聞かない」ということはほとんどないはずだ。
 だからこそ、ちゃんと聞くことができているかどうかを確認するのが難しいのだ。

 そもそも「ちゃんと聞く」とはどういうことか。 

 誰かに話をしたときに「ちゃんと聞いてもらえたな」と感じることもあれば、「なんだか聞いてもらえなかったな」と感じることもある。
 聞いてもらえたときはホクホクとした気持ちが残り、満たされたように感じる。聞いてもらえなかったと感じるときはモヤモヤとしたものが残り、満たされていない。
 いったい何が足りないのだろうか。

「ちゃんと聞く」とはどういうことかを考えるために、一旦、日常の会話を思い出しながら「なんだか聞いてもらえていないな」と感じるときに何が起こっているのか、聞き手がやってしまいがちなことを書き出してみることにする。

相手の話をお題にして自分の話をしてしまう

 話を聞いていたらそれに関連した自分の経験を思い出し、「わたしの場合はこうだった」などと自分の話に持っていってしまうことがある。

 最近、バラエティ番組でも、誰かの話を聞いた後で「それで言うと~」と別の人がトークのバトンを受け取るように話し出す場面をよく見かける。話がきれいに繋がっているとも言えるし、単に話題泥棒とも言える。

 話を聞いていて自然に湧いてくるのだから「聞けている」とも言えるのだが、話した側からすると、自分の話は宙に浮いたまま、相手の話にすり替えられたように感じてしまう。
 会話が途切れずスムーズに続いていても、キーワードだけ拾う連想ゲームのように、話題はどんどんずれていき、「あれ、今何の話してたんだっけ?」となる。

 どうでもいい話をしているときは、むしろそれが醍醐味で楽しいと思えるのだが、聞いてほしかった話が流れてしまうと、ちゃんと聞いてもらえたとは感じられない。
 同じお題で会話ができていても、「相手の話をちゃんと聞く」ができているとは言えない。

アドバイスやジャッジをしてしまう

「それはちがうんじゃない?」「もっとこうしたらいいんじゃない?」などと、相手の話をどう判断したかを伝えることがある。
 自分ならどうするか、どうすべきかを提案する。これはかなりよくあるパターンだろう。

 話し手からすると、アドバイスや意見がほしいときはありがたいのだが、まず一旦話を聞いてほしい場合、自分の話がしっかりキャッチされずに打ち返されてしまうと、受け取ってもらえなかったと感じてしまう。

 こういうことを言うと「女性の話にはアドバイスは不要で、同意や共感をしてほしいだけだろう」などとトンチンカンな意見も出てくるが、それもちがう。
 男女関係なく、「ちゃんと聞く」をしてほしいのだ。共感や反感はその後だ。

 ただ、これには話す側にも問題があるのではないかと思っている。

 話し手が「相手がどう思うか」を気にしながら話してしまうと、そのリクエストに応えるようにアドバイスをするのが自然な流れになる。
 自分がどう感じてどう考えているかを自分でもわからないまま、誰かに答えをもらおうとすると「どう思う?」「どうしたらいい?」と相手の反応をもらうために話すことになる。
 そういったコミュニケーションに慣れてしまうと、「いいアドバイスをするために聞く」になってしまうのもわかる。

 ちゃんと聞いてもらうには、相手がどう思うかよりも、自分がどう思っているかを伝えることを優先して話をする必要がありそうだ。

相手が気にいる反応をしてしまう

 相手が褒めてほしそうなら褒め、一緒に怒ってほしそうなら怒ってしまうのもよくあることだ。
 どう反応したら相手が気持ちよく話すことができるかを重視してしまい、ちゃんと聞くことよりもうまくリアクションを返すことを大事にしてしまっている。

 そうした反応を求める人もいるのでやっかいだが、わたしはリアクションを重視されてもうれしくない。
 聞きながら「正解の反応はどれか」を探っているのは、ちゃんと聞けているとは言えないだろう。

 わたしが学生の頃はこうしたやりとりが多かった。相手の話にどんな反応をするのが正解か、探り合うような会話をしている人が多かった。

 わたしはそれが苦手でできなかったので、よく不正解の反応をしてしまい「空気の読めないやつ」になっていた。
 しかし今では、正解を探るのが上手にならなくてよかったと思う。相手が気持ちよくなる正解のリアクションをするよりも、ちゃんと聞きたいと思っているからだ。

 また、「わかるー!」と共感できることに対しては反応するが、共感できないと反応が薄かったりスルーしたりすることもあるだろう。

 わからないことに「わからないからもう少し教えて」と興味を持って先をうながすことができれば、話す側も話し続けられるが、スルーされてしまうとそれ以上は話せない。

「わからない」と言われたら否定されたと感じる人がいて、そういう人は相手にも「わからない」とは言えないのだろう。
 共感されると安心し、共感されないと不安になる人同士の会話は、共感できるかどうかで成り立つ。

「わからない」を怖がる人は一定数いる。

 わたしは、わからないことがあったとき、その先に進みたいと思う。つまり「もっと知りたい」となるのだが、そう考える人ばかりではないようだ。

 はっきり見えないことや理解できないことが、能力不足に感じられて、自分を責めてしまうのだろうか。自分のわかることなんてほんの一部なので、仕方がないことなのに。

 それよりも、わかることだけで身の周りを固めていくのは狭い世界に自分を閉じ込めることになるので、わたしにとってはその方がずっと怖い。

「バカだと思われたくない」というプライドも関係しているのだろうか。その感覚があると、わからないと認めるのが怖いと感じて避けるようになるのかもしれない。

 また、よくわからないものや興味を持てないことについての話を聞くのが苦手な人がいる。その人は、相手がどう思い何を感じているかに関心を持てず、自分が興味を持てるかどうかだけを大事にしていると言える。