三者すべてが合理的に行動した結果、当座はどこにも破綻はないものの、誰も成長しない社会が成立する。それは、誰かが怠けたからでも、悪意を持ったからでもない。むしろ、誰もが「正しく」振る舞った結果である。

 だからこそ、この社会では、何が失われたのかが、ほとんど語られない。かつては、もう少しうまくやれるのではないか、もう少し分かり合えるのではないか、そうした期待が、少なくとも形式上は存在していた。いま、失われたのは、効率でも制度でもない。人や組織が、成長しうる存在だと信じる前提そのものである。

人に対する期待値が下がっているが、AIは飛躍的向上

 このような世界の中で、唯一の希望として浮上してくるのが、AIとロボットである。人手不足の度合いが強まっているため、日本では、AIやロボット導入への抵抗は少ないのではないかという見方もある。

 だが日本においては、それ以上に、人に対する期待値が下がり切っているという事情がある。定型業務だけではない。本来は知性や判断力が必要とされてきた営業やサービスの仕事ですら、「いまの担当者よりは、AIやロボットのほうが良いのではないか」と感じる人が増えている。

 もちろん、生身の人間であることを望む人もいるだろう。だが、すでにAIを日常的に使いこなしている人は、より正確で、より一貫性があり、しかも感情的にも温かくふるまうAIが存在していることを知っている。疲れて八つ当たりすることもない。機嫌で対応が変わることもない。質問をしても、嫌な顔をされることはない。

 AIを「食わず嫌い」している人も多い。だが一度使い始めると、努力せず、考えず、責任を避ける人間よりも、AIのほうが、理性的にも感情的にも、はるかに快適な相手であることを理解するはずだ。

 人に期待できなくなった社会が、最後に期待するのが機械であるというのは皮肉である。しかしそれは、感情的な選択ではない。合理性を積み重ねた末の、きわめて論理的な帰結でもある。皮肉なことだが、これによってAIやロボットの導入が促進されるのであれば、それもまた良しというべきかもしれない。