ところがグループを作る母集団は、クラスや学年の範囲に限られますから、よくて数百人、数十人といった単位です。ここから、快適に過ごせそうなグループ構成員(意見や趣味嗜好が似ている人、気が合う人)を抽出しても、理想通りとはいきません。
この状況を解決するのがSNSです。
個人はフィルターバブルの中に
閉じこもってしまうべき?
SNSは、でかければ数十億人の潜在利用者数を持っています。フェイスブックあたりで全世界で月間アクティブユーザ数は30億人と報告されています。気の合う仲間5人を、フェイスブックの30億人から抽出するのと、手近なクラスの30人から抽出するのとでは、圧倒的に前者のほうが粒の揃った「友だち」をリストに加えられそうです。厳選に厳選を重ねて(フィルター)、自分に似た人、気の合う人を探して囲い(バブル)の中に閉じ込められますから。
この意味において、小さなSNSには価値がありません。母集団に物量と多様性がないと、快適なフィルターバブルを作れないからです。
結論を先に言ってしまうと、私は「個人はこのフィルターバブルの中に閉じこもってしまうのがいい」と考えています。とても不穏当な主張であることは承知しています。
多様な意見に刺激され、それが昇華することも、新しい発見や自分の間違いに触れることもない、静止した空間がフィルターバブルだからです。近年の価値観で正義とされる多様な意見に触れる、様々な出自や資質を持つ仲間と動的に連携するといったイベントが、ここでは発生しません。
ただ、「快」ってもともとそういうものだと思うんです。それを追求することで利潤を生むビジネスモデルを組んだSNSも、ここを目指すのが本筋です。
いや、SNSは閉じた空間じゃないぞ、と感じるのはXをイメージするからです。XはSNSの定義(編集部注/フィルターバブルを作るサービス)から外れるサービスでした。
人類は「他者との比較」に
苦しめられてきた
これらを踏まえて、今起こっていることを整理しましょう。
私たちは風通しの悪い、古い因習からの脱却を目指しました。閉塞・固定した価値観から多様性へ。個人は尊重され、自分の人生を自分で選択できるようになりました。情報技術もこれに手を貸します。







