仮に攻撃側が特定されて、問い詰められても、「自分はそう認識していた」「又聞きで信じ込まされたので、自分も被害者だ」と主張します。

 端的に言って悪い人が得をする構造です。正義が重視された結果、悪人が左団扇になるのでは、皮肉にしても度が過ぎている状況です。

 これは、アテンションの獲得を超えた快楽を提供する行為かもしれません。反撃の恐れが少ない茂みから、圧倒的な力で人を踏み潰すことは愉悦になり得ます。

放送局並みの攻撃力を
個人の独断で振るえてしまう

「機動戦士ガンダム」において繰り返される主題に、「巡洋艦の主砲並みの兵装を個人が操っていいのか」というものがあります。巡洋艦は大きなフネですから、実際に主砲をぶっ放すまでには何人かの手を経ます。おかしな命令であれば、そこに止める余地が生じます。

 しかし、モビルスーツと呼ばれる個人向け機動兵器では、個人の独断で同じ力を振るえてしまうのです。ましてやそれに乗っている人間が、15歳の情緒の安定を欠く引きこもりであれば、周囲の人間が不安に思うのも当然です。

 現代はまさにこれと同様のことが起こっています。個人が放送局並みの打撃力を持ちうる状況になっているのです。

 個人が権力と闘うために力を獲得するのは許容されるとして、許される力はどこまででしょうか。投石は?銃は?核兵器は?無制限でないことは確実ですが、どこまでがよいかの線引きは困難です。たとえばアメリカでは、銃規制一つとっても合意できていません。

 物理的暴力はダメだと線引きを試みても、言論の暴力が物理を上回るケースはいくらでもあります。SNSを使ってオールレンジでぶつける石つぶては、すでに投石の水準にはありません。一発一発が致命傷になる実弾です。

 放送局であれば、そこで何らかの発信をできるようになるまでには長期間の教育を受け、幾重ものチェックを経て、複数のステークホルダに監視されての情報発信になりますが、個人に対してそのような義務は課されていません。いかようにも、好きな言葉を連ねて発信することができます。

 自分ではない誰かが叩かれ、自分の影響力によって墜ちていく様を観察する陶酔。その戦場で生き残った満悦。戦場を経験した兵が、アドレナリン放出依存や生存感の喪失から、過酷な戦場を懐かしむように、Xの泥仕合を経験した者もまた、Xでのレスバはやめられなくなります。ガンギマリしてしまえば、誹謗も気になりません。